2025-01-12主日礼拝説教
「キリストを誇る」
フィリピ1:21-26
木村一充牧師
週報の巻頭言にお書きしたように、本日は東京北キリスト教会から二人の方を当教会にお迎えして、「地域協働プロジェクト」の経過報告を含めた証しをうかがうことができました。東京北キリスト教会のある東京都北区は、とくに外国人居留者の比率が他の地区に比べて高い、外国人居住者が割合においてほかよりも多い地区であると聞いております。そのような地域性、地域の特性に根差すかたちで、東京北キリスト教会は「異文化共生」という目標を掲げて、2018年の秋に行われた連盟総会にこの「地域協働プロジェクトの申請」という議案を提出し、可決・承認を得たのであります。私どもの教会も北教会の「協働教会」となり、毎年の献金をもってこれを支援するという恵みに与かっています。およそ二年前の秋に、最寄りの駅が十条という駅から徒歩で10分あまりのところで北教会は新会堂を建設し、そこでの伝道活動を開始しております。本日は、北教会のメンバーにこちらに来て頂くという形を取りましたが、今後はこちらから北教会の礼拝に出向くという形で、あるいはオンラインで、主日の礼拝を共有するということが起こりうるかも知れません。引き続き、東京北キリスト教会のことを覚えて祈りたいと思います。
さて、本日お読み頂いた聖書箇所はフィリピの信徒への手紙1章です。フィリピという町は、ギリシャのマケドニア州にあり、当時マケドニア第一の都市として知られていました。もともとは紀元前4世紀に、アレクサンダー大王の父親フィリッポスが築いた町であって、町の名前もそこから取っています。パウロが第2回伝道旅行で訪問した紀元50年ごろには、ローマの植民都市となっていました。ローマとアジアを結びつける交通の要衝にあったのです。ローマはその軍隊をこのフィリピに駐留させて、アジア地方を平定するための軍事的な拠点にしたのです。そのようなわけで、フィリピではローマの法律が適用され、またローマ人が話す言葉が使われました。ギリシャの町といっても、実質的にはローマによる支配のもとでローマの影響を強く受けていたのであります。パウロはこのようなギリシャの町で、イエス・キリストの福音を宣べ伝えました。福音が初めてヨーロッパに伝えられた場所、それがフィリピでありました。
さて、パウロがこの手紙を書いたのは最初にこの地を訪問した紀元50年から4〜5年の年月が流れています。パウロは、そのあとギリシャの各地を巡回しながら次々と教会を立てあげ、そして最後の訪問先であるエフェソで捕えられ獄に入れられ、監禁生活を余儀なくされていました。これを知ったフィリピ教会のメンバーは、獄中のパウロを励まそうと教会員(エパフロデト)をエフェソに派遣し、教会のようすを報告しました。その報告を聞いて書き送られた手紙が、このフィリピの信徒への手紙であります。実は、フィリピ教会には、大きな問題が生じていました。教会の中にパウロが教え伝えた福音とは異なる教えをとくニセ教師が入り込んで、教会が分裂する事態が生じていたのです。パウロは彼らのことを1章28節で「反対者」と呼んでいます。パウロの論敵となった人たちです。しかし困ったことに、彼らもまた神の言葉を語ることにおいて熱心だったのです。彼らは、獄中のパウロをいっそう苦しめようとしたといいます。具体的には、パウロの教会での評価が落ち、その立場が不利になるように、福音を宣べ伝えたのです。党派心をもって福音を伝えたということです。その結果、教会の中にはパウロの教えどおりに信仰の道に入った人がいる一方、逆にパウロの立場を貶めるという不純な動機で、反対者たちが説く教えに従って信仰の道に入がいたのです。このような教会が主にあって一つになることは容易ではなかったでしょう。
このような困った事態を耳にしたパウロですが、手紙で何と言っているでしょうか。18節を見てください「だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。」そう言うのです。つまり、フィリピ教会での自分の立場の良し悪しに関係なく、キリストが宣べ伝えられていればそれでいいじゃないかというのです。神の言葉は真実であり、完全です。しかし、それを宣べ伝える人間は不完全であり、過ちを犯すものです。パウロとて、ただの人間です。ゆえに、反対者たちがパウロと違った意見をもち、パウロに対する悪意を持つということも起こり得ます。それでも、彼らがキリストを伝え、救いの道を説くことで、人々がキリストを信じるようになるのであれば、それはそれで喜ぶべきことだとパウロは言うのです。
二つの派があって、一方は善意から、もう一方は悪意からキリストを宣べ伝えています。前者は問題ありませんが、後者は問題になりそうです。悪意からなされた宣教は、逆効果になるからやめたほうがいい、とふつうは思うかもしれません。しかし、パウロは違います。理由がどうであれ、「キリストが宣べ伝えられている」のだから、それを喜ぶというのです。これは、時代を超えてあてはまることです。私たちの間で、仮に福音理解をめぐる意見の違いが生じたとしても、そこで神さまを信じる人が起こされるのであれば、それでいいのではないでしょうか。動機がどうであれ、大切なことはキリストが宣べ伝えられることです。その宣べ伝えによって救われる人が起こされること、それこそがパウロが見つめている「一番大切なこと」であったのです。
私は、伝道者としての自分の歩みを振り返ってみて、自分が立派な人格者だと思ったことは皆目ありません。私がどれほど「しようもない人間」であるか、私の家族は知っています。けれども、そのような私が、一つだけ誇れること、それはイエス・キリストとその教会が好きだということです。教会大好き人間なのです。だから、教会の活動が神さまに祝され、神さまに喜ばれることが一番の私の祈りのテーマです。パウロは、今日の箇所で「わたしにとって生きるとはキリストである」と述べています。キリスト中心に生きているというのです。
神さまは、私ども人間の弱さや過ちさえ用いて、ご自身の救いの業を成し遂げられます。詩編の作者とされるダビデも罪を犯しました。パウロでさえ、もともとは教会の迫害者でした。けれども、神さまは、このような罪人の悔いし砕けし魂を喜んで受け取ってくださいます。2025年の私どもの栗ヶ沢教会が、この神さまを中心にして、イエス・キリストを宣べ伝える教会、イエス・キリストを誇りとする教会であることを切に祈る次第であります。
お祈りいたします。