栗ヶ沢バプテスト教会

2025-01-19 主日礼拝説教

希望をもって生きる

Tペトロ13-9

木村一充牧師

 

 この朝与えられた聖書の御言葉(みことば)は、ペトロ第一の手紙13節以下です。この手紙は、主イエス・キリストの一番弟子である使徒ペトロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散している仮住まいの人たちに向けて書き送られた手紙です。これらの地方は、すべて小アジア、現在のトルコ領に属する地名です。彼らは、かつてローマの地でペトロと一緒に、福音のために力を合わせて主の業に励んでいた人たちでした。しかし、皇帝のおひざ元である首都ローマでは、キリスト者への迫害が厳しい中で信仰生活を続けることが困難な状況になっていました。彼らは、自分たちの故郷や仕事上のつながりのある小アジアの地域へと移住し、そこで信仰生活を続けました。ペトロは、そのような信徒たちを読者として想定しつつ、彼らを励ます目的でこの手紙を書き送ったのであります。

 なぜ、キリスト者はローマ帝国内で迫害を受けたのでしょうか。これは、十年ほど前の東大入試の世界史で出題された問題でもあります。世界史の教科書には、キリスト者たちが皇帝を礼拝することを拒否したからと書かれていますが、それだけではありません。ローマでは、皇帝が信奉する神々を市民にも信じるように求め、神殿での祭事に参加することを市民にも要求しました。ところが、キリスト者たちはこの異教の神々を拝むことを拒否し、結果的にローマ法をやぶることになったのです。本村凌二というローマ史研究で知られる東大教授は、属州民の宗教に対して比較的寛容な態度を取ってきたローマが、キリスト教を弾圧するようになった最大の理由は、キリスト教を信じる人たちが「ほかの神はニセモノだ。信じてはいけない」と言い続けた、つまり帝国内でキリスト教を広めようとしたからだと主張しています。私自身、おそらくこの本村先生の説が、いちばん真相に近かったのではないかと考えています。キリスト者たちは、ユダヤ教のような選民思想を強く持たなかったため、信仰を与えられて教会生活を始めるやいなや、あらゆる人種や民族、社会的階層をこえて、人々に自分たちの信仰を伝えようとしました。そのために、外来の宗教に寛容であったローマ政府からみれば、その伝道活動が自分たちの許容範囲を超えることになったのです。本村先生はその本の中でこう述べています。「ローマが、ローマ人以外の人々に信仰の自由を求めたのは、ローマ人の信仰にも口を出さないでほしいという思いがあったからです。…しかし、キリスト教徒は自分たちの信仰を守るだけでは満足できなかったのです。ゆえに、キリスト教は弾圧され、また世界中に広がったのだと思います」と。

 このように、キリスト教はその草創期から、自分たちが信じるキリストを一人でも多くの人に告げ知らせて、人々に救いの恵みに共に与かってもらいたいという伝道の精神を持ち続けました。わが国にも室町時代の種子島にフランシスコ・ザビエルという宣教師がやってきて、キリスト教を布教したことが知られていますが、実は紀元1世紀の新約聖書の時代からこのような宣教師が活動していたのです。三度の伝道旅行をしたことで知られるパウロ、パウロの伝道旅行に同行したテモテやテトス、そして本日の手紙の著者であるペトロ、かれらは全員キリスト教の宣教師だったのです。キリスト教信仰には、このような伝道の精神がいわば「DNA」として受け継がれています。先週の定例役員会で、私は2025年度の活動方針として「神の恵みの善き管理者」というテーマを掲げました。それを支える聖書は本日の第一ペトロ書410節です。「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。」という御言葉(みことば)です。その中で、一番目に挙げたテーマが「地域伝道の推進」という課題です。先週も賛美歌を歌う会が開催されましたが、新しい方が3人も出席され、しかもその中の一人は私たちの教会堂が、とても音響がいいという評判を人から聞いており、それで来てみた、と言われるのです。私たちの教会には、このような素晴らしい会堂が与えられているのです。これを活用しない手はないというべきです。いつの時代においても、伝道がたやすく行われた時代はありませんでした。神の言葉を告げ知らせるために、人生を賭け、生涯をかけてこれに献身する宣教師の働きがあって、福音が全世界に広められ、私たちもその恵みに与かっています。この手紙の読者であった「ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たち」は、キリスト教信仰から抜け出し、信仰を捨てるためにこの地域に移り住んだのではありません。そうではなく、小アジアという比較的早くから福音が浸透していた地域に移り住み、そこでなお信仰を保ってキリストの業に励もうとしたのです。

 そこで、本日の箇所に入ってゆきます。3節を読みます「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、」とあります。ギリシャという国は早くから哲学や思想が発展し、ヘレニズム文化を生み出した文化国家でした。ところが、そこで暮らす人々は未来に向かっての希望を持つことができなかったのです。たとえば、ソフォクレスという哲学者はその本のなかでこう語っています。「生まれてこないこと、それが最高の幸運なのだ。しかし、もし生まれてきたのなら、第二の幸運はできるだけ早くもとのところに帰ることだ」つまり、未来に対する希望などないと考えていたのです。しかし、キリスト者はそうではありません。キリスト者とは朽ちる種からではなく、朽ちない種から生まれたのです。彼は、イエス・キリストの復活の命に与かり、新しい命を生きる者となっています。「だれでも、キリストにあるならば、その人は新しく作られた者である。古いものは過ぎ去った。見よ、すべてが新しくなったのである」と、御言葉(みことば)が示すとおりです。

 先週の金曜日に、文京区にあるキリスト者学生寮の金曜礼拝に説教者として招かれました。その礼拝の中で、かつてその寮で学生時代を過ごし、卒業後に農林水産省の官僚となって働いて定年を迎え、今はその寮を運営する公益法人の理事となっているOBの方が、寮生たちに励ましの言葉を語りました。この寮でくらす何年かの間に、生涯にわたって自分の能力を生かすことができるライフワークを見つけてほしい。そして、その仕事を通して自分を輝かせ、社会に貢献し、同時に神さまをも喜ばせてほしい。この寮が毎週金曜日ごとに、こうして夕礼拝をささげている意味はそこにあるのですよ、と学生たちに語りかけていました。若者たちに、礼拝の中で将来の夢を語ることができる、そのようなキリスト者学生寮が今の時代にもあるのです。私たちは、聖書の信仰が未来に対する夢や希望を与えるものであることを忘れてはなりません。先ほどのギリシャ哲学者のように「生まれてこないことが、いちばんよかった」などと聖書は、決して言わないのです。

 しかし、現実の世界にはいまなお悲惨な現実があり、人間の罪による悲しい出来事が後を絶ちません。このような、今の時代を生き抜くことは決してたやすいことではないことも事実です。ペトロは本日の6節で「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれません」と書いています。この世で生きる以上、たしかに苦労はあるのです。しかし、その試練は、火で精錬するためのものだというのです。すなわち、金属の原石が高熱の炉の中で溶かされ、純度100%の鉄や金となって炉の中から出てくるように、私たちの信仰をより確かなもの、強固なものとするために、神が与えられた訓練、テストのようなものだとペトロは言うのです。

 話は変わりますが、小谷美香子という女子シンクロナイズドスイミングの選手を育てたコーチは、井村雅代というコーチでした。井村コーチは、これがもう限界だ、という言葉を、自分でも、選手にも決して口にしないコーチとして知られています。その練習はとても厳しく、半端ではない練習量で、朝早くから夜遅くまで続くといいます。かつて、その練習の現場で、テレビの取材を受けたことがありました。なぜ、井村さんはこれほどに過酷な練習を選手たちに課するのですかと、聞かれたそうです。これを聞いて、井村コーチはこう答えたそうです「なぜ、これほどの練習をするのか。それは、自分たちがこれだけ練習してきたんだという思いが自信につながり、本番でその力を十分に発揮するためです」と。これまでの日本女子選手は、本番になるとミスが出て自分の力が出し切れなかった。それは精神的な弱さから来ていた。その弱さを克服するには、練習以外にない。だから、私は心を鬼にして選手たちに徹底的に練習させる、というのです。その結果、選手たちのメンタルは強くなり、何年も続けてメダルを取り続ける強いチームになりました。選手たちが、栄冠を勝ち取るために厳しい練習を課する。選手たちを苦しめるためではありません。精神的に鍛える、強くさせることで、彼女たちに栄冠を勝ち取らせるためです。

 このことは、たちの信仰にも言えることです。人生におけるさまざまな苦難や試練は、神さまが

私たちを憎く思い、私たちを苦しめるために与えられたものであはありません。そうではなく、その試練を通して、たちの信仰を火で精錬された金よりもはるかに貴いものにするためです。金よりも貴いのです。たとえ、山のような財産を親が残してくれたとしても、それがもとで家族や兄弟が仲たがいし、財産を巡って争いが起きることもあります。私たちの心が喜んでいなければ、どれほど物質的に豊かであっても、私たちは幸せではありません。しかし、ペトロは今日の箇所で信仰の喜びを説くのです。8節です「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。」魂の救いとは、それほどにたちを喜ばせてくれるものです。

 いつの日か、私たちは本物のイエスのお姿を見ることができるにちがいありません。使徒パウロは、コリントの信徒への手紙一、13章で「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」と言っています。終わりの時、キリストが再び来られる再臨の時に、私たちはイエス様とお会いできるのです。ペトロ書は、きびしい迫害下にあるキリスト者たちに向かって、信仰に生きる者の希望を説いています。それは現代も同じです。私たちは、この希望によって救われているのです。私たちの人生が、最後は喜びと平安、称賛と光栄と誉れで包まれることを希望しつつ、主に従う者として歩んでまいりたいと思います。

 

お祈りいたします。