栗ヶ沢バプテスト教会 2025-01-26 主日礼拝説教

神の教会を立てる」エフェソ411-16

木村一充牧師

 この朝与えられた聖書の箇所は、エフェソの信徒への手紙411節以下です。この手紙の宛て先であるエフェソは、新約聖書の時代においてもっともギリシャ化された都市のひとつであり、アジア州の首都として栄えていた港町でした。しかも、エフェソの町には豊穣の女神であるアルテミスを祀る神殿があり、世界中の人がここに参拝に訪れていました。ギリシャ哲学もさかんであり、ヘラクレイトスという哲学者はこのエフェソ出身の人です。このようにギリシャの異文化が支配するなかで、エフェソのキリスト者たちは少数者として生きてゆかねばなりませんでした。その教会の信徒たちにむけて、パウロは手紙の中でキリスト教の教理と信仰者の生き方を説いています。その神学的な深さのゆえに、この手紙は新約聖書の中で「手紙の女王」と呼ばれています。

 エフェソの信徒への手紙は全体で6章から成り立っていますが、前半の3章まででキリスト教の教理が語られ、4章以下ではキリスト者の生き方が勧告されています。4章は、この手紙のいわば第二部の冒頭であり、ここからキリスト者の生き方が語られはじめます。3章までで神の目的と計画のもとで教会が立てられたことが語られました。では、その使命を果たすために個々の教会員はどうあるべきか、それが本日の4章のテーマとなっています。ここで4節以下に強調されていることは、キリストの体としての教会は一つであるということです。紀元325年に小アジアのニケーアという都市で宗教会議(公会議)が開かれました。この会議は当時の皇帝であったコンスタンティヌスによって召集され、司教の数だけで250人、信徒を含めるとさらに多くの人が参加して、1ヵ月にわたってキリスト教の教義について会議が開かれました。この会議の結果、父と子は本質において同じであるとするアタナシウスの主張が採用され、アリウス派を異端としたのです。この会議のあと、「ニケーア信条」と呼ばれる信条文が作成されました。このニケーア信条に「教会」についての告白があります。そこでは「私たちは、唯一の、聖なる、公同の、使徒的教会を信じます」と告白されます。ここで「唯一の教会を信じます」、とあるのが、本日のエフェソ書から来ています。ここで、教会とは建物のことではなくて、キリストを信じる人々の集まり、共同体のことを指します。彼らは、キリストをかしらとしてこれに繋がり、キリストの体の一部を構成しています。つまり、体の一つの器官(オルガン)となるのです。この器官はかしらであるキリストの意志にしたがって動きます。どんな体の器官も、頭脳と分離して働くことはありません。頭脳につながり、一つとなり、調和して働かなければ、からだは変調をきたしてしまうのです。各器官の一致は、キリストがその御業をおこなうために必要不可欠の事柄であります。

 ところで、かつて、私はある時家庭集会に参加していた一人の婦人から次のような話を聞きました。彼女は学生時代バスケットボールの選手として活躍するほどの健康体の持ち主でしたが、ある時期から体重が落ち始め、ボールを持って動くことさえ困難になったといいます。そのまま、衰弱がひどくなり、皮膚は荒れ、色を失い、しまいには、あばら骨が浮き出るような骨と皮だけの体になってしまったというのです。そこで、彼女は大きな病院に行って詳しく検査してもらいました。すると、膵臓の機能低下が衰弱の原因であることがわかりました。そこで、インシュリン投与の治療を始めたといいます。すると、膵臓の機能回復と同時に、食事が進むようになり、体重も増え、肌の色も回復し、体の他の機能も徐々に回復してゆくのが体感としてわかったというのです。彼女は、この経験を通して人間の体は全体で一つであって、それぞれの器官は互いに助け合い、補い合っているのだということを実感したといいます。人間の体がそうであるならば、キリストの体である教会も同じです。教会につながる一人一人は、決して単独者として立っているのではありません。そうではなく、キリストの招きと神の愛によって呼び出された者として、体としての教会の交わりに入れられているのです。

 教会と聞くと、多くの人は礼拝堂に代表される建物のことだと考えるのではないでしょうか。しかし、新約聖書に登場する「教会」と訳されるもとのギリシャ語(ギリシャ語原語)は「エクレシア」といい、それは「人々の集い」を意味のことでした。やがて「エクレシア」は「神の呼びかけによって集められた人々」という意味になります。建物ではない「人々の集い」こそが教会だったのです。ですから、ここに集われるお一人お一人こそ、実は教会なのです。パウロの時代、ローマ帝国において教会堂を立てることは許されていませんでした。クリスチャンたちは、最初はユダヤの会堂でユダヤ人と一緒に礼拝をささげていた。やがて、ユダヤ教徒たちから迫害されるようになり、彼らは会堂を出て、信徒の家(自宅)で礼拝をささげるようになります。新約聖書の時代の教会は、その大部分が家の教会でした。さらに迫害が厳しい時代になると、彼らは地下に洞穴を掘って、そこで礼拝をすることもありました。それでも、キリスト者の数は減りませんでした。御言葉(みことば)が語られ、主の晩餐式が分かち合われ、相互に祈り合う信徒の共同体のつながりは固かったのです。彼らは、本日のエフェソ書にあるように、キリストにあって一つの信仰、一つのバプテスマ、一人の神を主と仰ぎ、主の日ごとの礼拝をささげてきたのです。

 本日の9節以下で、パウロは、地上で肉体をもって過ごされたイエスが栄光の体となって天に上げられたと語ります。イエスが肉体の束縛から解放されて、聖霊によって世界の至るところに臨在することができるようになられたのです。さらに、教会を立て上げるために必要な指導者としての職務を与えられました。それは、順に使徒、預言者、福音宣教者、牧者、教師であると言われます。これらの人々はすべて教える働きにたずさわる人たちです。具体的には、御言葉(みことば)を教える働きです。なぜ、パウロはこれらの教える職務を、教会を立て上げるうえで最も大切な働きだと考えたのでしょうか。私の理解では、それは聖書の神が「言葉の神」だからだと思います。「はじめに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった」ヨハネ福音書は、そう言います。つまり、教会で語られる言葉は、ただの言葉ではない。そこに命が宿っている。人の人生を変える力が、神の言葉にあるのです。今から、16年前の200928日、私はそれまで前任教会で協力牧師でしたが、主任牧師が辞任され無牧となった教会の後継牧師として教会から招聘を受け、就任式に臨みました。その日、当時日本バプテスト連盟の常務理事であった加藤誠先生から、祝電を頂きました。そこには、こう書かれています。「木村一充牧師の就任・按手式に際し、心よりお慶び申し上げます。…真に人を裁き、永遠の命に人を生かす、いのちの御言葉(みことば)を託されている教会の使命を覚えます。木村一充牧師の就任、按手を通して、大泉教員一人一人の献身が新たにされ、いのちの御言葉(みことば)の宣教が、ますます力強く担われてゆかれますように、祈らせて頂きます。今後とも、共に協力伝道に参与できることを喜びつつ…」この祝電を頂き、身の引き締まる思いをしたことを今でも思い出します。真に人を裁き、それによって人を本当に活かす力が、聖書の御言葉(みことば)にはあります。その御言葉(みことば)を語り伝える働きを、パウロはキリストの体を立てあげる上で一番大切な職務だと捉えていたのです。

 昨日の土曜日(125日)午後1時より、大井バプテスト教会で東京地方壮年連合主催の研修会が開催されました。「バプテストの教会形成」という題で金丸英子先生が講演されましたが、その講演会の最後の質疑応答の際に、一人の質問者が「1960年代初めのバプテストの創始者たちが掲げた理念やその信仰が、現代の教会にも、そのままいきいきと継承されていると思いますか」と質問しました。これに対する金丸先生の答えは、自分はアメリカや日本のバプテスト教会のすべてを知っているわけではないので、正しく答えられるかどうか自信はないけれども、少なくとも今の日本のバプテスト教会では、その「教える力」が確実に以前より弱くなっていると思う、とお答えになりました。そもそも、教えるという業には、エネルギーと時間が求められる、と金丸先生は言われます。その通りだ、と思わされました。

 続く12節には「こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、」と書かれます。以前の口語訳聖書では「それは、聖徒たちをととのえて奉仕の業をさせ」と訳されていました。ここで「ととのえる」と訳されるギリシャ語の動詞には、医学用語が使われています。すなわちそれは、外科の医術用語で骨折した手足を添え木をつけるなどして固定したり、はずれた関節をもとの場所にはめ直す場合に使われる言葉でありました。他の箇所では、やぶれた網を繕う(マルコ1:19)とか、罪を犯した人がふたたび教会の交わりの中に入れるように指導、矯正する(ガラテヤ6:1)という意味で使われている動詞です。つまり、この「ととのえる」とは、本来あるべき状態から外れてしまっている人や物を、あるべき元の位置に戻すという意味です。教会のなかで「教える」職務を担う人は、教会員一人一人を教会の中でその人のあるべき場所へと導き、そのために援助し、配慮するのです。それを、自分の名を高めるためではなく、その人のために、その人の喜びの事柄となるように祈り支えるのです。

 最後に、パウロは教会を立てあげるために具体的に何を目標とすればよいかを13節で語っています。その第一は「神の子に対する信仰と知識の一致」です。教会はイエス・キリストを信じる信仰と、それを知る知識において一つにならねばなりません。私たちが、折に触れて御言葉(みことば)を学ぶのもそのためです。第二は、「成熟した人間」になるということです。そのためには、自分のことだけを考えるのではなく、他者を思いやり、人を愛し、赦し、たとえ困難や試練に遭っても、忍耐する強い心が求められます。難しいかも知れません。けれども、イエス・キリストはまさにそのようなお方として、私たちの模範となってくださっているのです。キリストに倣う者となりましょう。第三は、一人一人が「キリストの満ち満ちた豊かさにまで成長することです。それは、私たちの心の中にキリストが住まわれるようにすることです。つまり、一人一人がキリストを持つということです。船橋聖書バプテスト教会という教会のHPを見ると、バプテスト教会の特徴が8つ紹介されています。その一つに「教会員一人一人が運営する教会です」とありました。教会を人任せにせず、自分の責任で担ってゆく。それがバプテストの教会だというのです。その通りであります。最初の質問に戻りましょう。教会とは何でしょうか。それは、組織でも建物でもありません。イエスの名によって集められた私たち一人一人が、キリストの体そのものです。教会を立てるとは、私たちがキリストに結びつき、成長することであります。

 

お祈りいたします。