栗ヶ沢バプテスト教会

2025-02-02 主日礼拝説教

主の祈り(T)

マタイ65-10

木村一充牧師

 

 主エイスがあるところで祈っておられた時、弟子の一人がその祈りが終わるのを待ちかねていたかのようにこう求めました。「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」

ここで「祈りを教えてください」と訳される「祈り」には、原語では名詞ではなく動詞の不定形が使われています。つまり、ここでこの弟子は、祈りの文言や型、お題目ではなく、どのように祈るか、祈るという行為そのものを教えてくださいと求めたということです。この弟子の願い求めは、時代や場所を超えておおよそ神に向かって何かを祈ろうと願う者すべてに当てはまることではないでしょうか。なぜなら、私たちにも、神の前に祈れない、どうやって祈ってよいかわからない、ということがしばしばあるからです。ここで、私たちは一つの問いに向き合いたいと思います。そもそも祈りとは何でしょうか。もし祈りを定義するとすれば、その定義はどのようなものでしょうか。

 今からおよそ400年近く前の1647年のイギリスで、スコットランドのイングランドの教会の教職者および神学者たちが「ウェストミンスター小教理問答書」と呼ばれる信仰問答書(つまり、キリスト教の教理をめぐるQ&Aです)を編集、作成しました。その教理問答書の中の98番目に、その答えが記されています。こう書かれています。Q:「祈りとは何ですか」A:「祈りとは、神の御心(みこころ)にかなう事柄を求めて、キリストの名においてわれわれの願い求めを神にささげることである。われわれの罪の告白をもって。また神の憐れみに対する感謝の念をもって。」この訳文で、「もって」と訳される部分は「with」という単語で付加的に表現されています。平たく言えば、祈りとは神に対して私たちがキリストの名によってささげる願い求めである、ということです。ただ、この祈りの定義におけるキーワードは「神の御心(みこころ)にかなうことを求めて」という言葉です。祈りにおいて、私たちは神の御心(みこころ)にかなうことを求めるのです。祈りが聞かれない。いくら祈っても、その祈りに神が答えてくれない。そのような経験をだれもがいたします。その時には、次のことを認めなければいけないのです。それは、今の自分の祈りや願い求めが叶わないのは、それが神の御心(みこころ)ではないからだと。しかし、話はそれほど単純に片付けられるでしょうか。東京神学大学の近藤勝彦という教義学の先生がおります。この先生が、あるとき埼玉県のある教会の主日礼拝に説教者として招かれ、説教奉仕をしました。礼拝の後、先生を囲んでの愛餐会が催され、教会員と親しく交わる場が設けられたといいます。その愛餐会の席で、一人の婦人が近藤先生のところに来て次のように尋ねました。「近藤先生、本日は、分かりやすい御言葉(みことば)の取次ぎをありがとうございました。ところで、先生は説教で神の御心(みこころ)について話されました。実は、私には息子がおりましたが、病気のため大学生の時に21歳の若さで召されてしまいました。先生、このことも神の御心(みこころ)だったのでしょうか」もし、私が同じような質問を受けたら、間違いなく答えに窮したであろうと思います。近藤先生は婦人にこう答えられました。「そのことも神の御心(みこころ)であると、受け入れられるようになる。そのような信仰が持てるようになりたいですね」と。神は、私たちの願い求めに奉仕するしもべではない、と近藤先生は言われます。しかし、そのような信仰を持つことは容易ではありません。その様な信仰に導かれるためにも、私たちは祈りの戦いをしなければならないのです。

 そこで、本日の聖書の箇所にはいってゆきます。ここには主イエス・キリストが「祈る時にはこう祈りなさい」と教えられた「主の祈り」と呼ばれる有名な祈りの言葉が記されています。この主の祈りを今週と来週の二週にわたって学びたいと思います。まず、主の祈りの構造ですが、主の祈りは全部で6つの祈りから成り立っており、それらは二つの部分に分かれます。前半の3つの祈りは父なる神に対して捧げられる祈りであり、本日のマタイ福音書では「・・・ように」という表現で表されています。始めの3つの祈りは父なる神への呼びかけに始まり、その聖なる名前、神の国、聖なる意志といった、神に属するものが崇められますようにという祈りです。後半の3つは、日々の糧、赦し、誘惑とわれわれを取り巻く悪に立ち向かう祈りです。前半が天に向かってささげる祈りであるのに対し、後半は糧、赦し、誘惑、悪という地上に目を向ける祈りです。3つの祈りが天に向かってささげられ、3つの願いが地上のためになされています。すべての人は二つの目で周りの物を見ますが、信仰にも二つの眼が求められます。一つの眼は、神を見上げ、神の光を見出す眼です。もう一つの眼は、地上に向けられ、この世の困難や暗闇を認識するのです。言い方を変えれば、最初の眼によって上に向かう方向、神の方向に向かう内なる人(霊なる人)を目覚めさせ、もう一つの眼はわれわれを地上に向かわせる外なる人、肉なる人の重さを実感させます。その両方の現実が、明るさと暗さ込みで、覆い隠すことなく神の前に露わにされています。主の祈りでは、天に向かう限りない情熱・パッションと、地上の糧や食べ物を求める願いの両方が、私ども人間の偽りのない願望として、神の前にささげられているのです。その意味で、主の祈りはまさしく「地に足のついた」祈りであると言えるでしょう。

 さて、本日の主の祈りの内容に入る前に、一つ注目しておきたいことがあります。それは、この祈りを祈られたイエスご自身が、神さまのことを「アバ」(=お父ちゃん)と呼ばれて祈られたということです。もともと、「アバ」とはユダヤの家庭で、幼児が父親に向かって呼びかける時の愛情表現でした。英語で表すと「Daddy」となるでしょうか。もともと、旧約聖書の神の名前ヤハウェ(YHWH)という名前の意味は「わたしはここにいる」という意味です。その神を、イエスはアラム語で「アッバ」と呼ばれた。それは「お父ちゃん」という意味です。このような幼児言葉で呼びかけることで、イエスは次のことを教えておられます。すなわち「神はわれわれの間におられるお方である。その優しさ、憐み、慈しみをたずさえてわれわれの近くに来られるお方なのだ」そうです。神さまは、遠いお方ではなく、近くにおられるお方です。しかも、このお方は、敬虔な信仰深い人だけの神ではありません。「天の父は、悪人にも善人にも太陽を上らせ、雨を降らせてくださる」とあるように、すべての人を受け入れ、すべての人を慈愛で満たしてくださるお方です。

 このことを前提に、主の祈りの前半部分の特徴を3つあげたいと思います。その第一は、主の祈りは「われらの祈り」であるということです。天にまします「われらの」父よ、とわれわれは祈ります。天とはいと高きところです。しかも、天は地上のすべてのものを包み込み、地の果てまでつながっています。神さまは、そのような天に住まわれ、全世界を天上から見下ろし、被造物のすべてを支配しておられます。この「われら」の中には、私たちの敵も含まれています。未だ和解が成立していない敵対者もまた、共に祈る祈り。この祈りが、礼拝という公の場において全員で祈られる理由がそこにあります。この主の祈りを通して私たちは、この場に集うことができなかった人のことも覚えつつ、彼らに代わって祈るのです。主の祈りはわれらの祈りであることを心に刻みましょう。

 主の祈りの第二の特徴は、主の祈りは神の名を聖とする祈りであるということです。主の祈りにおいて私たちは「御名(みな)をあがめさせせたまえ」と祈ります。この第一の祈りのギリシャ語原文の文字どおりの意味は、「御名(みな)が聖とされますように」と受身形で表現されています。要するに、現実の世界では神の名が汚されるようなことが起きているということです。戦争や暴力、差別や搾取、神を無視した自己中心な言葉や行動、それらは神を悲しませ、神の名を小さくしています。私たちは、このような世界において神さまの名前を大きくするのです。神の名をあがめるとは、現実の世界がいかに神の御心(みこころ)に反する方向に進んでいようとも、なお神をほめたたえ、賛美し、神の栄光を喜ぶことです。そして、神を恐れ、神が喜ばれるような生き方をすること、それが神の名を崇める、すなわち聖とするということです。

 主の祈りの第三の特徴、それは主の祈りは神の国がすぐそこに来ていることを告白する祈りであるということです。「御国が来ますように」と私たちは祈ります。御国、すなわち神の国とは「神の支配」を意味する言葉です。しかし、主イエスはその宣教の始めにおいて、すでにおっしゃっています。「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」神の国は近づいた。すぐそこまで来ていると言われたのです。イエスという人そのものにおいて、イエスの言葉や行動、とくにその救いの業を通して、神の国は来ているのです。間違いなく、教会は、地上における神の国の先取りの場所ではないでしょうか。先週の礼拝がおわったあと、一人の教会員の方と立ち話をしました。その方はこう言われました。「教会にきて、皆さんとお会いするとほっとします。自分を飾ったり、逆に隠したりすることもなく、「ありのままの自分でいいんだよ」と神さまが言ってくださる気がするのです」と。嬉しかったです。すべてを神の手に委ねる、すると神さまが支配されるようになるのです。この世界に平和が来るように祈りましょう。差別や迫害、貧困がなくなるように祈りましょう。あらゆる被造物が幸せになる、神の国はその時完成します。教会は、そのために今日も主の祈りを祈るのです。

お祈りいたします。