栗ヶ沢バプテスト教会

2025-02-09 主日礼拝説教

主の祈り(U)

マタイ611-13

木村一充牧師

 

 この朝は、先週に続いて主の祈りの後半部分を聖書箇所として、神の言葉に聞いてまいります。先週の学びで、主の祈りの前半部分を学びました。本日は後半の3つの祈りを共に読み進めます。先週の説教において、私たちが礼拝のたびにささげる主の祈りは、大きく二部構成になっており、前半の3つの祈りはわれわれの心を天に向ける祈り、後半の3つは転じて心を地上に向ける祈りであると申しました。つまり、垂直方向と水平方向の両方に関心を持ち、両方に私たちが目を向けることによって、主に祈りは「地に足のついた」祈りになるのです。さらに注目したことは、主の祈りは「われらの祈り」であるということです。この「われら」の中には、われわれにとっての敵、未だ和解が成立していない敵対者も含まれています。私たちは、自分だけのために主の祈りを唱えるのではありません。そうではなく、ここに集い共に礼拝をささげている方、オンラインで礼拝に参加している方、いやおよそ神の前に祈ろうとするすべての人のために、この祈りは開かれているのです。

 以上を前置きにして、本日は後半のマタイ611節以下に入ります。11節を読みます「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」週報に掲載されている主の祈りでは「われらの日用の糧を今日与えたまえ」となっていますが、ギリシャの原文に「今日も」の「も」はありません。「今日与えてください」となっています。今日一日のパンが手に入るかどうか、それさえ分からない。それが、イエスが共に生きられた当時のユダヤの民が置かれていた現実でした。「糧」と訳されているギリシャ語は「パン」という意味です。「人はパンのみによって生きるにあらず」とイエスが荒野の誘惑の場面でサタンに答えたあの「パン」と同じ言葉が使われています。このパンには重要な意味が込められています。何よりも、このパンは私たちの命をつなぐ糧、すなわち命のパンです。人間の命はこの一握りのパン、物質に依存しているのです。われわれがどれほど信仰的になろうと、どれほど精神的に高められようと、それはパンに代わることはできません。たしかに、生命はパン以上に価値あるものですが、パンなしに人は生きてゆけません。それは建物でいえば土台であり、それが堅固に備わってこそ人はそこに住むことができるのです。パンがすべての人の生命を支える大事なものであることを、神はわかっています。ゆえに、神はわれわれがパンを得るために労働をし、そのために汗や涙を流す必要があると言われているのです。人はパンのみで生きているわけではありません。しかし、パンがなければ人は生きてゆけません。パンの問題を軽く見てはなりません。週報に書きましたように、胃袋は脳や心臓と並ぶほど重要な臓器、重要な器官であります。

 しかし、このことは神学的に言えばどのような意味を持つのでしょうか。日々のパンを求める主の祈りが、「われらの祈り」になるとはどういうことでしょうか。これについては、次のことを言わねばなりません。パンを求める祈りは、私個人の願い求めに留まらず、神が造られたすべての人間の必要、すべての人間の飢え、すべての人間の救済を求める叫びに応える祈りであるということです。ここで考えてみましょう。パンは確かに物質ですが、それは表にある石ころとは違います。私たちの食卓に並ぶ前に、何人もの人がこれに関わっています。麦の種を蒔く人、水や肥料をやって育てる人、刈り入れる人、粉をひく人、こねる人、焼く人、運ぶ人、店頭に並べる人、一杯います。要するにパンは社会的な物素なのです。そのパンが我らのパンになるように祈るということは、私たちが飢えている人、渇いている人、裸である人のために、食べる物、飲む物、着る物を分かち合うことを、神が求めておられるということです。考えてみてください。目の前に飢えている人がいて、それを見る私たちだけが喜んで食事をとることができるでしょうか。満腹して満ちたりることができるでしょうか。人間がこの地上に生きているのは、ただ自分だけが幸せになるためだけではありません。すべての人が幸せになるために人は生きているのです。主の祈りにおいて、神がわれわれに望まれるのは、人間は神の名、神の国、神の意志のためだけに祈るのではなく、人間自身のためにも祈る、ということです。ですから私たちは、パンの問題を軽く見てはいけないのです。パンもまた、人を救うことができる。飢えた人にパンを分かち合うことは、神が望んでいるきわめて聖書的な行為であることを心に刻みたいのであります。

 続いて、12節を読みます。「わたしたちの負い目を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」ここで負い目と訳されるギリシャ語は、もともと会計用語であって、商売の世界で使う「負債」に当たる言葉です。時の経過とともに、そこに宗教的な意味が込められるようになり、「罪」とほとんど同じ意味で使われるようになりました。しかし、この5番目の祈りの言葉は私たちの良心を揺さぶります。「わたしたちも、自分に罪を犯した人を赦しましたように」と祈る時、果たして自分は本当に人を赦しただろうかと、戸惑うのです。矢内原伊作という哲学者がおりました。父親は、東大総長も歴任したことのある矢内原忠雄という人です。内村鑑三の主宰する聖書研究会に参加を許され、その門下生となってキリスト教会の指導者となった人です。この矢内原伊作さんの自伝的な文書(「山辺に向ひて」)の中に、若い時の日記が収められています。すぐれた信仰者の子として生まれ、やがては父の後を継いで、信仰の指導者になるものと仲間たちから期待されておりました。ところが、彼は遂に信仰を持ちませんでした。信仰を捨てたのであります。なぜ、矢内原伊作さんは父親の信仰を受け継がなかったのでしょうか。この自伝のなかに次のような文章があります「自分の父のキリスト教は、本当のものではない。いや、間違っていると思う。なぜなら、父親の話を聞いていると、誰かの名前が出る。そうすると、父は言う。あいつは馬鹿だ。あんな奴の言うことに関心する連中もまた馬鹿だ。全然本質がわかっていない」と。そのようにつぎつぎに人を罵倒する父の言葉を横で聞きながら、伊作さんはこう書いています。「父上のキリスト教には罪の意識が明瞭でなく、他を責むるに急にして、己れを誇る嫌いがある」と。しかも、父の鋭い目は息子である自分にも向けられているように思う、と書くのです。私たちが著書から知る矢内原忠雄先生からは想像もできない痛烈な批判がここに記されています。しかし、この伊作さんの文章を読みながら、私は「あの立派な先生にも、実際にはこんな弱さがあったのか」と密かに矢内原先生を見下すことなど全くできません。「他を責めるに急にして、己れを誇る嫌いがある」のは他人事ではない。他ならぬ私自身のことだからです。人の罪を赦すことのできない自分、自分のことは棚に上げて人の過ちを糾弾する自分、主の祈りが問うのは、そのような自分がいかに神に向き合うかということです。主イエスは、そのような私たちに向かって「われらに罪を犯した者を、われらが許すごとく」と言わせるのです。

 考えてみれば、罪人である私たちが人の罪を赦すことなどできっこないと言うべきです。それがおできになるのは神お一人です。そうすると、この祈りは「わたしたちは、他者が自分に対して犯した罪を赦すことはできません。しかし、主なる神さま。そのように人を赦せない私ですが、どうぞ少しでも赦すことができるように助けてください」ということではないでしょうか。「だから、われらの罪をもお許しください」これは決して商取引のようなものではありません。この祈りによって、神に対するように、隣人にも同じ態度で接すように求められているのです。垂直方向の祈りと水平方向の祈りは、両方が同じ重さで祈られ、行動に移されてはじめて、力ある祈りになります。ヨハネの手紙一(第一ヨハネ)420節には次のような御言葉(みことば)があります「目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。」隣人を愛することと神を愛することは同じだというのです。私たちのだれもが、誰かに負い目を負って生きているのではないでしょうか。誰かに面倒を掛け、人に迷惑を掛けながら生きる。それが人生ではないでしょうか。むかし、ある家庭集会で一人の求道者の方がこう話すのを耳にしました。「木村先生、私もこの年まで何とか生きてきました。願わくは、この先誰にも迷惑を掛けずに死にたいと思っています。どう思われますか」これに対して私は答えました。「それは無理です。だれにも迷惑を掛けずに死ぬということは、だれにも迷惑を掛けずに生まれるということと同じくらい困難なことです」と。そして、申し上げました。それよりも安心して迷惑をかけられる家族や友を一人でも多く持つようにしたらどうですか、と。

 そして、最後が13節です「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。」誘惑や悪をこの世から取り除いてくださいと祈るのではありません。そうではなく、この世に生きる私たちに、誘惑や悪の働きかけがあることを認め、その存在を前提に、そこから守ってくださいと祈るのです。神はなぜこの世に誘惑や罪があることを認められたのでしょうか。神は全能なかたです。しかし、神は人間が罪を犯すことを許されました。さらに、その罪を犯した人間に皮の衣を与えて彼らを守るということさえされました。なぜ、神は罪を犯すことを許したのでしょうか。それは、その悪を超えて、さらに高い善を人間が構築することができると、神が人間に期待したからです。悪を乗り越え、それにまさる善をなすことを神が求めておられるのです。神の国はまだ来ていません。しかし、神の国は近づいています。私たちは、神の前に自らの罪を悔い改め、神の御心(みこころ)を探りながら、その御心(みこころ)をこの地上でなすように努めるのです。私たちは、この世の誘惑や悪に立ち向かい、これに勝利しなければなりません。しかし、安心してください。私たちは勝利できるのです。なぜなら、他ならぬイエス・キリストがこれに勝利されたからです。

 キリスト者は心を天に向けて、神の名を崇め、神の国を求め、御心が成るようにと祈ります。しかし、同時にこの地上で誘惑に陥らず、悪に勝利するように神から求められているのです。先週の、祈りは戦いであると申しました。その戦いを根気強く続けてゆきましょう。その祈りの戦いを通して、この地上を神の国としてゆくのであります。

お祈りいたします。