2025-02-23 主日礼拝説教
「福音を喜ぶ」
Tコリント9:15-18
木村一充牧師
本日は第一コリント書9章15節以下から御言葉(みことば)に聞いてゆきます。本日の箇所に先立つ9章の1節以下の段落で、パウロは、自らの使徒としての立場、使徒職について疑いをもつコリント教会の人たちがパウロ本人にむけた批判に対する弁明を書き記しています。パウロは開拓伝道者でした。ひとりも信徒がいない、というゼロからのスタートでしたから、他からの収入は期待できません。そこで、彼は天幕張りという仕事をしながら、同業者であるプリスキラとアキラというユダヤ人夫婦の家に住み込む恰好で、1年半にわたってコリント伝道をおこないました。その結果、それまでパウロが訪れたギリシャのどの町よりも大きな規模の教会を立ち上げることができたのでした。教会が大きくなると、コリント教会の信徒たちはパウロに対してその働きに対する報酬を支払おうとします。ところが、パウロはそれを受け取ろうとしませんでした。(実際パウロの生活費は、フィリピなどの他の教会からの支援によって賄われていたようです。)なぜ、パウロはコリント教会の人たちが申し出た報酬を受け取らなかったのでしょうか。そこには、コリント教会における特別な事情がありました。その第一は、コリント教会の人たちの中には「パウロは、使徒ではない」と考える者がいたということです。当時「使徒」と呼ばれる人の代表は何と言ってもペトロでした。イエスの12弟子の筆頭であり、復活のイエスに「いの一番」に出会った人物です。しかしパウロは、もとはと言えば、教会の迫害者でした。教会における信用がなかったのです。当時の巡回伝道者たちは、エルサレム教会からの推薦状をもらって伝道者としての信用を得ていました。しかし、パウロはエルサレム教会とさほど仲がよくなかったため、推薦状を書いてもらうこともできなかったという事情もありました。以上のような理由で、使徒としての信用も得られないままに教会から報酬を受け取るということをパウロは避けたのです。
二番目は、コリント教会の人々に重荷を負わせたくはないという思いがパウロにあったからです。自分にとって福音を伝えることこそが何よりの喜びであり、その働きへの報酬によって豊かな生活をすることは考えなかったわけです。当時のエルサレム神殿、あるいはギリシャの神殿にはそこに仕える祭司たちがいて神殿のつとめを果たしていましたが、彼らは大変豊かな生活をしていました。神殿にささげられる夥しい数の家畜が彼らの収入源でした。その肉は食べきれないほどの量になり、祭司たちはその肉を市場に払い下げるほどでした。また、その動物の皮もとても高価で、そのまま祭司たちの収入になったのです。その結果、祭司たちは宗教家として献身的に神に仕えると言うより、むしろ捧げものを収入源にした豊かな生活を送ることを第一にするようになっていたのです。パウロは、当時の祭司たちのこのような本末転倒した姿、評判の悪さを知っていました。そこで、彼らとは正反対の生き方をしようと決めて、教会からの援助を断ったのでした。三番目の理由は、パウロの独立心の強さでした。コリント教会から生活費の援助をしてもらうくらいなら、死んだ方がましだと本日の15節で書いています。この点について、彼は頑固すぎるほどであったと言えるかもしれません。生活の問題を第一とし、伝道を二義的に考えるような姿は、必ず人を躓かせると思ったでしょう。伝道者という立場を利用して、豊かな生活をしようと考えることは間違っているということを、自らの行動を通して明らかにしようとしたのです。
鈴木崇巨(たかひろ)と言う牧師が書いた書物に、「牧師の仕事」という題名の本があります。この本の中、第1章では「牧師とは何か」というテーマについて説明がなされています。続く第2章で「召命」というテーマが掲げられています。命を召すと書きます。内なる心の耳で、神が私を召しておられるという呼びかけを聞くことに始まって、その呼びかけを確かな神の声として信じて聞くことができる時、その呼びかけは人には聞こえません。しかし、聖書にはそのような神の呼びかけを聞いた人がイスラエルの民のリーダーとして立てられる、という物語がしばしば登場しています。モーセがそうです。預言者イザヤやエレミヤもそうでした。そのように、私たちもまた神から召されていると感じることがあるのです。しかし、そのような神の召しを経験した時、注意すべきことがあると、鈴木崇巨牧師はこの本で言います。その一つ目は、牧師になろうと決意した時の動機が純粋であるかどうかを吟味する必要があるということです。たとえば、いろいろな職業についてみたが、どれもうまくゆかなかったから牧師になるように導かれているのかもしれない、というような動機であるとすれば、それは間違っていると言います。なぜなら、牧師は生涯にわたってその「いろいろな仕事」をしなければならない職だからだというのです。さらに、一つの職業を引退して老後を有意義に過ごすために牧師になろうと考えるならば、それは誤った動機だと言います。なぜなら、それは自己目的だからというのです。召命という出来事は、そのことを通して神の栄光があらわされる出来事です。老後の奉仕をしたいと言うのであれば、何も牧師の按手をうけなくても別なやり方があるはずだし、そういう人はたくさんいるといいます。一つの判別手段として、「自分は牧師になりたい」と言った時に、他の人がそれに賛成してくれるかどうかを聞いてみたらいいと鈴木牧師は言います。神からの召命に他の人が判断を下すことはできません。しかし、人と関係ないところで召命が起こることもありません。なぜなら、教会は人々の群れだからです。
本日の手紙を書いた使徒パウロという人は、キリストとの出会いによって、180度の方向転換を経験した人でした。あのダマスコに向かう途中の道で、「パウロ、パウロ。なぜわたしを迫害するのか」という復活のイエスの声を聞いて、そのまま倒れて目が見えなくなるという経験をした人です。このあと、パウロはアナニアに見いだされて目からうろこが落ちるというような経験をしました。やがて、後に3回にわたって、世界伝道に向けた旅に出かけ、行く所すべての町で福音を伝え、教会を立て、主を信じる魂を起こすのです。本日の16節でパウロは言います。「わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。」パウロの召命感は、煮えたぎるお湯のようであります。「福音を語り告げないなら、わたしは不幸だ」とパウロは言うのです。こう訳されるギリシャ語のもとの言葉には「ウーアイ」という間投詞が使われています。悲惨だ、ひどい、大変だ、という意味をもつ言葉です。もしも、福音を語らないなら、わたしは悲惨だというのです。
パウロにここまで言わせる福音とはいったいどういうものでしょうか。福音と訳されるもとのギリシャ語は「ユーアンゲリオン」といいます。ユーとは良いという意味です。たとえば、良い死を意味する「ユータナジー」という言葉は「安楽死」という意味です。アンゲリアとは、音信またはメッセージという意味です。このふたつが結びついてできた言葉が「ユーアンゲリオン」という一語で「よき知らせ」という意味になります。このアンゲリアと、エンジェル(angel=天使)という言葉は同じ語幹からきた言葉です。もともと、ギリシャは都市国家(ポリス)が連合してできた国です。これらの都市国家どうしが対立して、戦争をすることがありました。その際は、町から遠く離れた広場や海が戦場となりました。その戦いの勝利の知らせを走って告げ知らせる人、それをアンゲロス(伝令)といいます。つまり、国家同士が戦争したとき、勝ったほうの国の伝令だけが勝利の知らせを持ち帰ることができたのです。「マラトンの戦い」の話は有名ですね。この伝令は、勝利の知らせを携えて自分のポリスに走って持ち帰ります。「わが国は勝ったぞ!」という知らせです。その伝令の帰還を待つポリスの人たちは、大喜びで彼を迎えるのです。やがて、息子が、夫が、父親が元気な姿で戦場から帰ってくるのです。その伝令は、笛や太鼓やシンバルをもって歓呼のうちに迎えられるのです。
実は、聖書の中でも同じことが起こっています。すなわち「イエス・キリストは勝利したぞ!」という知らせです。何に勝利したのか。私たちの罪に対して勝利されたのです。更には、私たちの死に対して勝利されました。更に、私たちの孤独や絶望に対して神が、勝利をされたのです。この喜びの使信を、私たちは聖書を通して福音として聞くのです。パウロは福音を宣べ伝えるのに何も報酬を受け取りませんでした。しかし、お金を受け取る以上の喜びがパウロのなかにあったに違いありません。それは、福音によって、それまでの人生を感謝と喜びに生きる人生へと変えられたことです。
私自身の人生もそうでした。信仰に入る以前の私は、将来に対する漠然とした不安や恐れを抱き、かつどのように生きるべきかがまったく分かっていませんでした。しかし、神さまを信じることによって、不安から解き放たれ、どのような時にも神が共におられることを実感するなかで、心穏やかに生きることができるようになりました。これこそが、福音に生きる力です。パウロは、このあと「福音のためなら、わたしはどんなことでもします」と述べています。福音を伝えることが人生のすべてであり、それを無くしたら何も残らないというのです。伝道者の真骨頂があらわれた言葉です。
教会は、新しい年度に向けて歩み出そうとしています。どのようなことが起ころうとも、神が勝利をしてくださるという信仰に支えられて、歩んで参りたいと思います。そして、福音のためならどんなことでもする、という気概のもとに新しい年度を歩んで参りたいと思います。
お祈りいたします。