栗ヶ沢バプテスト教会

2025-03-02 主日礼拝説教

互いに仕えなさい

Tペトロ47-11

木村一充牧師

 

 この朝与えられた聖書の箇所は、ペトロの手紙一4です。この第一ペトロ書は、イエスの12弟子の一人であった使徒ペトロの名を用いた著者が、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをしているキリスト者たちを読者として書き送りました。現在のトルコ領に属する各地方に離散して暮らしている信徒たちに、ローマから書き送られた手紙であります。当時のキリスト者たちは、ローマ政府による迫害に苦しみながら、信仰生活を守っていました。本日の聖書ページのすぐ下の段落でも「キリスト者として苦しみを受ける」という小見出しが付けられていますが、当時、公認されていない宗教であったキリスト教を信じて信仰生活を続けることはたやすいことではありませんでした。なぜなら、ギリシアやローマの神々をまつる神殿が町ごとに建っているという異教社会のなかで、キリスト者は少数者(マイノリティー)として生きなければならなかったからです。風当たりも強かったことでしょう。1月に大井バプテスト教会を訪問して、大井教会の教会学校の活動の歴史をCSの元校長先生であった方からヒアリングをしました。その際に、その方がおっしゃったことが忘れられません。大井教会は付属幼稚園を卒園した子どもたちが小学校に上がっても、そのまま日曜学校に続けて出席し、小学科のメンバーとして残る強みをもっている。ところが、その小学生が中学生になると、学校で部活が始まる。すると、サッカーにせよ、バスケットボールにせよ、日曜日は部活の対外試合でうまりほとんど教会に来られなくなる。それに代わって、ミッションスクールの生徒たちが中学科のおもなメンバーになるというのです。公立学校での部活動が、中学生たちの日曜学校への出席を困難にしているという一面をみても、この国のキリスト者たちも異教社会の中にいるのだなと思わされます。

 さっそく、本日の7節から読んでまいりましょう。「万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。」そうペトロはいいます。ペトロの手紙二310節に「主の日は盗人のようにやって来ます。」とありますが、キリストの再臨が近いとペトロは言うのです。主が再び来られる日が近いという信仰が生まれたのは、初代のキリスト者たちが日常生活を切迫感をもって送っていたことのあかしです。それは、たちが有限な時間の中を生きているということです。昨年の暮れから2月までのおよそ2か月間、私は咳が止まらない、風邪の症状に苦しみました。先月末ごろから薬を飲み始め、咳が止まり、よくなったのですが、体重が少し減ってしまいました。この経験を通して、健康管理に手を抜いてはいけない、体を大事にしなければいけないと強く思わされました。今日という一日、3月という一ヵ月、2025年というこの一年を緊迫感をもって大事に過ごしたいと思わされたのです。とくに、私たちの教会には弱さを抱える方がおられます。それらの方のことを常に覚えながら、アンテナを張りめぐらして互いに祈るものとなりたいのであります。

 つづく8節に「よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。」とあります。もしも、私たちが誰かを愛するという場合、その人の欠点やその人の弱さ、さらにはその人のどうしようもないダメな部分も受け入れて、その人を愛するはずです。そうするのは、自分もまた欠点や弱さがあることを認めるからです。私は、長く進学塾で教育相談や進路相談の仕事をしてきました。なかなか成績が伸びずに苦戦している子どもたち、とくに受験生を前にして、私はいつも大丈夫だ、君ならやれると励まして、元気づけることをしてきました。すると、お母さんがこう言うのです。「先生、はげましの言葉をありがとうございます。でも、私は無理はさせません。なぜなら、私も勉強が苦手でしたから」神さまもそうなのです。神さまも私たち人間の罪を認め、そのような私たちをそのままで愛し、受け入れてくださっているのです。イエス・キリストは、私たちの欠点や弱さを丸ごと認め、受け入れてくださっているのです。

 二番目に、9節でペトロは旅人をもてなすように勧めます。いま、祈祷会では使徒言行録を読んでいますが、教会の初めのころ、使徒たちの福音宣教の働きをささえた信徒たちに共通する奉仕のわざがありました。それは、福音を宣べ伝える働きをした使徒たち、ペトロやパウロを、彼らが自分の家に泊めて、もてなしたということです。ペトロは皮なめし職人のシモンという人の家に泊まってサマリア伝道をしています。また、パウロはフィリピでは紫布の商いをしていたリディアという婦人の家に泊めてもらい、コリントではプリスキラとアキラという天幕張りをしていた夫婦の家に住み込みで働きながら、福音宣教の働きをしました。巡回伝道者たちは、行く先で福音を広める際にどこかに宿泊しなければなりませんでしたが、宿屋は費用が高く、しかも不衛生でした。信徒の家庭に泊めてもらい、もてなしを受けることがいちばんのサポートだったのです。ある注解書には、このような信徒による個人的なもてなしがなければ、初期の伝道活動は決して成功しなかっただろうと書かれています。無数の名もなき信徒たちが、自分の家や家庭を開放して福音を語る人をもてなしたことが、伝道者の生活を可能にしたというのです。ちなみに、私の出身教会であった常盤台教会では教育館二階の牧師室のとなりに和室があって、そこで旅人が泊まることができるようになっていました。私も、神学生時代に一度そこに泊まった経験がありますが、費用的にもずいぶん助かったものです。ローマ帝国内では、最初の200年間は、教会の建物を建てることは禁止されていたので、礼拝は信徒の家で行われていました。自分の家をこころよく礼拝のために開放してくれる人がいたからこそ、初代教会は毎週日曜の礼拝をささげることができたのです。

 そして、三番目です。10節です。「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。」これは、本日の総会で2025年度の活動方針の根拠となる御言葉(みことば)です。教会は一人一人の人に与えられている賜物のすべてを必要としています。この賜物、ギリシャ語では「カリスマ」といいますが、恩寵・恵みという意味です。すべての人にその賜物が与えられているのです。ある人は、教える賜物、ある人は奉仕する賜物、楽器演奏や特定の技術、さらには捧げる賜物などタラント(タラントン)はいろいろあります。何かを持っていることがタラント(タラントン)であるだけではありません。何かを持っていないこともタラント(タラントン)になりうるのです。栗ヶ沢教会では、かつて車いすに乗って礼拝に出席される方のためのスペースが確保されていたことがあったとお聞きしました。そのような方の存在が、礼拝の場で覚えられることは素晴らしいことです。

 キリスト者は、自分を神の恵みの管理者と考えなければなりません。自分が持っているもの、それが物質的なものであれ、才能や個性のような固有の能力であれ、神さまがその人に与えられた特別な資質、タラント(タラントン)なのです。それを神さまが喜ばれるように用いること、それが良き管理者としてのつとめです。昨日は土曜日でしたが、私どもはカトリック松戸教会の朝祷会に出席しました。そこで、新松戸福音自由教会の淵野牧師が奨励をされました。先生たちには26歳と20歳の二人の実子がいます。二年前のクリスマス1225日に、我が家に3人目の子どもが与えられたと話されました。生後3ヶ月でお預かりし、現在16か月になるといいます。この子は里子だというのです。里親となるためには、1年以上の研修と事務的な準備期間が必要でした。その研修が終わって2週間後に、すぐに里親となる話がきたというのです。聞けば、奥さまは保育士と幼稚園教師の資格をもっているといいます。そして、クリスマスにその子を引き取り、今は、我が家でも教会でも皆から愛されて育ち、可愛くて仕方がないとおっしゃっていました。ご夫妻のこの子への挨拶の言葉は「本当にうちに来てよかったね」だそうです。帰りがけに妻と話しました。神さまが、特別に渕野先生の家を用いられたのにちがいないと。私たちに、もう里親はできません。しかし、神さまのためにできることはあります。新しい年度にむけて、自らに与えられたタラント(タラントン)を活かしましょう。私たちの教会に与えられている恵みはいっぱいあります。その恵みの善き管理者となりたいと思うのであります。

お祈りいたします。