2025-03-09 主日礼拝説教
「ぶどう園の農夫」
マタイ20:1-16
木村一充牧師
本日与えられた聖書箇所は、このあとの教会学校の分級で読む箇所と同じマタイによる福音書20章の1節以下であります。主イエスのたとえ話が記されているところです。「ぶどう園の労働者のたとえ」という小見出しが付いていますが、イエスが語られたたとえ話の中でも、とても良く知られている物語です。たとえ話はギリシャ語で「パラボレ」といいます。パラボラ・アンテナという直径が数メートルの大きなアンテナがありますが、同じ語源から来ている言葉です。「投げ返してくるもの」という意味を持つ言葉です。すなわち、このたとえ話を聞くあなたはどこに立っているのか、ないし、あなたはどちらの側に立つのかと逆に問い返してくる力をもつ物語、それがイエスのたとえ話です。しかも、イエスは物語の題材として、パレスチナのぶどう園で収穫の時期に毎年みられた光景を扱っています。ぶどうの収穫の時期は8月下旬から9月の半ばまででした。この時期を過ぎると、やがてパレスチナは雨期に入ります。雨が降る前に取り入れないと、ぶどうは腐ってしまいます。もしくは、味が落ちてしまうのです。そこで、収穫の時期は一刻を争う繁忙期となり、ぶどう園の主人はいわゆる「猫の手も借りたい」状態になるのです。
そこで、主人は労働者を雇うために、夜明けと同時に出かけてゆきました。市場に出かけたのです。ユダヤでは、市場は野菜や果物などの商品が売られる場所であると同時に、労働者たちが雇ってくれる人を求めて立つところでもありました。つまり、労働力も売られていたわけです。彼らは要するに「日雇い人夫」であり、主人の家に住み込んで働く奴隷や使用人よりもさらに不安定な立場に置かれていました。奴隷なら餓死する心配はありません。しかし、日雇い人夫は、仕事にありつけない日が出てきます。その時は、一日空腹を我慢しなければなりませんでした。彼らは奴隷よりも低い階級に属していたのです。本日の物語の2節にあるように、夜明けと同時にぶどう園に送り込まれた人たちは、午前6時から夕方6時までの12時間働くことになります。主人は、彼らと一日1デナリオンの約束をして、ぶどう園に送り込みました。1デナリオンとは、当時のパレスチナで成人の男子に払われる日当で、家族がやっと一日食べていける金額でした。しかし、物語はこれで終わりません。主人がこのあと3時間たって午前9時ごろ市場に行きます。すると、何もしないで立っている人々がいました。彼らは怠けて時間を浪費していたのではありません。彼らも働きたいのです。けれども、朝一番からの仕事にありつけず、仕方なくそこで仕事を待っていたのです。主人はさらにこのあと、昼の12時、午後3時、さらに夕方5時にも市場に出かけています。そして、同じように立っている人々を見つけては「あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう」と声をかけてゆくのです。ふさわしい賃金と聞いて、声を掛けられた労働者たちは恐らく時間割の賃金を、頭の中で計算して想定したに違いありません。夕方5時から雇ったとしても、日が暮れるまで1時間しか働けません。それでもなお、彼らを雇ったのは一刻も早くぶどうを収穫してしまわなければ、雨のせいでぶどうが台無しになってしまうという心配があったからです。こうして、日が暮れました。
主人は、監督に命じて労働者たちを一列に並ばせます。そして最後に来たものから先に並ばせ、順番に賃金を支払いました。ここで驚くべきことが起こります。夕方5時から働いて1時間しか働かなかった者と、朝一番から夕方まで12時間働いた者と、結果的に全く同額の1デナリオンの賃金が主人から支払われたというのです。とても不思議な話です。
私は、学生時代にこの聖書の物語を経済学部に進学する友人に話して聞かせたことがあります。「聖書にはすごいことが書いてあるんだ。夕方から1時間働いた者と朝一番から働いた者とに、主人から払われた賃金が同じだっていうんだよ」すると、その友人は「そんな話はありえない。賃金と雇用に関するケインズの理論を、木村も勉強しろ」と言って私を非難するのです。しかし、聖書が語っていることは信仰の事柄であり、経済学の話ではありません。主人は朝9時から働いた人に対して、ちゃんと約束した通り1デナリオンの賃金を支払っているのです。
かつて、神学生時代のことですが、新約聖書学の授業中に、本日の聖書箇所であるマタイ福音書20章のぶどう園の労働者の話が、話題に上ったことがありました。青野先生の授業中のことですが、成果に違いがあるにもかかわらず、賃金は同じという事例として、青野先生はスイスに本社があるNestle(ネッスル)という会社の話をされました。ネスカフェというコーヒーで知られる会社ですね。この会社では、健常な人と同様に、身体に障害を持つ人も雇われて働いているのですが、その賃金がさほど変わらないというのです。青野先生は、その理由として次のように言われました。健常者であれ、ハンディを持つ人であれ、一つの仕事に向き合う際に費やした努力、時間や労力という点から見ると、成果に差はあっても、その人が100%の力を出し切っているという点では変わらないはずだ。だとすれば、会社としてはその流した汗に対して同じ報酬を払うべきだと考えたのだと思う。記録に差はあっても、オリンピックの金メダルもパラリンピックの金メダルも価値は同じ、というわけです。
しかし、本日のぶどう園のたとえにおける労働者の賃金の話と、ネッスルという会社における労働者の賃金の話とは、明らかに違いがあります。それは、本日のぶどう園の農夫の話では、夕方5時から働いた人は1時間しか働いていないにもかかわらず、明け方から日没まで12時間働いた人と同じ額の賃金をもらっているということです。端的に言えば、夕方5時から働いた人は、一日分の賃金をもらう資格がなかった人なのです。にもかかわらず、天国においては、そのような仕事にありつけなかった労働者がひもじい思いをすることが無いように、神さまは無資格者である彼らにも、一日分の賃金をもらう資格のある者と同じ恵み、恩寵を与えてくださるという。ここでの賃金は、神の恵みを指しています。ここで、私たちは、この物語をどちらの側に立って読むのでしょうか。もし、朝一番から働いた人の立場に立って読めば、ここでの主人のやり方に、同じように不平や不満を抱きます。しかし、もし私たちが夕方5時から雇われた者であったとすればどうでしょうか。本来ならば、もらう資格がないにもかかわらず、一日分の賃金を頂いたことをただ感謝して、ありがたく受け取ることでしょう。さらに、もう一つ見落とすことのできないことがあります。それは、この1デナリオンという日当がその労働者の家族を養うのに、最低限必要な金額であったということです。公平という観点からみれば、労働時間が少ない者は賃金も少ないのが当然です。しかし、すべての人には働く権利があるのと同様に、その働きに対してちゃんと生活ができる賃金を得る権利もあるのです。ぶどう園の主人は、そのことがわかっていました。
したがって、このたとえ話で私たちが読み取るべきことは次のことです。すなわち、ここで語られているのはわずかな時間(1時間)しか働かなかった者に対して、丸一日働いた者と同額の賃金を支払うという神さまの理不尽さ、冷酷さではなく、本当であれば一日分の賃金を受け取る資格がないにもかかわらず、そのような弱く小さくされた人に優先的に恵みをお与えになる神さまの寛大さ、心の広さです。そして、後者のメッセージを読み取るために、私たちは「私も、最後に雇われた労働者なのだ」と気づかなければなりません。
新約聖書には、これと似た話があります。ルカによる福音書15章には、「放蕩息子のたとえ」として知られる主イエスのたとえ話です。ここでは、裕福な家庭で育った二人の兄弟のうち、弟のほうが父親から生前贈与というかたちで財産を受け取った後に、すべてを金に換えて遠い国に旅立ち、そこで放蕩三昧を重ねた挙句、父親からもらった財産をすっかり使い果たしてしまう話が記されています。弟は、農家に身を寄せてそこで働き、豚のエサで腹を満たしたいと思うほどのどん底生活を経験します。そして、何もかも失ったのちに、自分のことを奴隷として受け入れてくれる唯一の場所があることに気が付くのです。それは、父の家でした。彼は、ボロボロの恰好で家路につきます。すると、まだ遠く離れていたのに、父親は弟の帰る姿を目ざとく見つけて、走り寄って彼を抱きしめ、最上の衣服を着せ、指輪をはめさせ、靴を履かせるのです。そして、弟の帰還を祝うために盛大な宴会を催しました。しかし、このことに納得できなかったのが、仕事先の畑から帰ってきた兄でした。彼は父親に向かって言います。自分は、父のために何十年と仕えてきたが、子山羊一匹すらあなたからもらったことがない。ところが、放蕩三昧のあげく、すべてを使い尽くして無一文で帰ってきたこの弟を、父よ、あなたはあろうことか最優遇の仕方で出迎えている。お父さん、あなたは不公平ではないか、と。けれども、父親はいうのです。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。」と。この放蕩息子のたとえ話と、今日のぶどう園の労働者のたとえ話は重なり合うところがあります。それは、朝一番から雇われて12時間働いた労働者も、また放蕩息子の兄のほうも、幸運にも12時間働くことができた者、神の恵みを十分受けている者、また父親から愛されている者であるということです。それなのに、そのことを忘れて、あとからやってきた者が大事にされ、スポットライトを浴びるとねたましく思い、神さまに文句を言い始めるのです。
「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」という御言葉(みことば)で、本日のたとえは終わっています。教会の中でも、この御言葉(みことば)に書かれているようなことが起こりえます。すなわち、教会に新しい人が加えられて、これまでとは違ったやり方や考え方を企画、提案するということが起こる。その際には、それを頭ごなしに否定するのではなく、出来る限り受け入れ、その趣旨を組み取りながら、これまでのやりかたを変更、修正する柔軟さを持ちたいと思うのです。神の恵みはすべての者に注がれています。その恵みに感謝しながら、最後に来た、資格のないような者にも、等しく恵みを注がれる神の寛大さを覚え、感謝したいのであります。
お祈りいたします。