2025-03-30 主日礼拝説教
「最後の晩餐」
マタイ:26:26-30
木村一充牧師
本日のお読み頂いた聖書箇所には、主イエスが十字架上でお亡くなりになる前夜に弟子たちと共に取られた最後の食事の場面が描かれています。レオナルド・ダ・ヴィンチの絵「最後の晩餐」でも知られる、とても有名な場面です。この食事は、過越しの祭りに合わせて、各地のユダヤ人がエルサレムに宮詣にやってきた時に取られた食事でした。本日の箇所のすぐ前の段落からもわかるように、この時の食事は「過越しの食事」と呼ばれた食事であります。この食事はただの食事ではありません。ユダヤ教徒が決して忘れてはならない記念すべき出来事を想起する食事です。すなわち、イスラエルの民がモーセに率いられて奴隷の地であったエジプトから脱出したあの「出エジプト」の出来事を記念して祝う食事、それが過越しの食事でありました。
過越しの祭りは、ヘブライ語で「ペサハ」、英語では「Pass over」と呼ばれます。ちょうど今くらいの季節、毎年春3月末から4月にかけて訪れる満月の日の夜に、律法で定められた食材を用いて調理した料理を食べながら、イスラエルを救われた神の御業(みわざ)を覚えつつ、家族全員でこの祭りを祝ったのです。出エジプト記12章26節以下を読むと、次のように書かれています。「また、あなたたちの子供が、『この儀式にはどういう意味があるのですか』と尋ねるときは、こう答えなさい。『これが過越しの犠牲である。主がエジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越し、我々の家を救われたのである』と。」この文章からわかること、それは、過越し(Pass over)とは、神の怒りが過ぎ越すということです。出エジプトの前夜、神はエジプトを撃たれました。国中の初子を、人間も動物もすべて撃つと神は言われました。ただ、イスラエルの民だけは、泊まっている家の柱と鴨居に小羊の血を塗り、目印とすることによって、その災いを避けることができました。その出来事を想起しつつ、過越しの祭りを祝うことで神さまの格別の守りと救いの業(わざ)を覚える、それが過越しの祭りであります。イスラエルは、この祭りを新年の祭りとして祝いました。この祭りから新年が始まりました。つまり、わが国で言えばお正月です。私事で恐縮ですが、家内の母親が存命だったころ、毎年、家内の弟家族も一緒に、母の家に集まり、お正月の食事会をすることが習慣になっていました。その際は、母が作ったおせち料理が楽しみでした。昆布巻きとか栗きんとん、黒豆とか数の子など、いろいろありますね。尤も日本のお正月は、新年を迎えて年を重ねる、新たな年の始めということ以上に大きな意味はないように思われますが、ユダヤのお正月には宗教的な意味がありました。それは、神が、イスラエルを奴隷の地から解放してくださったということです。
週報の巻頭言にもお書きしましたが、過越しの食事のために用意される食材は、大きく次のとおりです。小羊の肉、種入れぬパン、苦菜、ハローシェトと呼ばれるりんご、いちじく、なつめ、くるみを混ぜて作ったジャムのような練り菓子、そしてぶどう酒です。種入れぬパンを食べるのは、エジプトから脱出する際に大急ぎで出発するために、小麦粉を発酵させる時間がなかったからです。苦菜はかつての奴隷時代の苦しみを思い起こさせる食材です。また、果物を混ぜてつくった練り菓子は、エジプト時代のレンガ作りを思い出させる食材でした。そして、小羊は、脱出の際に、柱と鴨居にその血をぬるために屠った動物です。それぞれの食べ物に、自分たちの先祖のエジプト時代の苦難と、そこから救い出してくださった神の御業(みわざ)を思い起こさせる意味が込められています。ですから、主イエスがこの夜弟子たちと共に取った食事は、ただの食事ではなかったのです。この食事は、神の救いの御業(みわざ)を告げ知らせる記念としての食事でありました。イスラエルを奴隷の地から救い出したその神が、イエスを信じる弟子たちの群れ、キリストの教会にも、この食事を通して同じ救いの業(わざ)を起こされるとイエスは考えておられたのです。
余談ですが、私自身も、主イエスが弟子たちとともに食されたこの過越しの食事を、一度教会員の皆さまと一緒に、この受難節の季節に合わせて、ぜひ当教会の牧師館で食べてみたいと考えています。前任教会時代は、自宅から教会まで自転車で通勤し、牧師館には住んでいませんでした。牧師館のガス栓も閉めていて、すぐには調理ができませんでした。よって、そのような食事会も簡単にはできませんでした。しかし、栗ヶ沢教会には立派な牧師館があります。本当に立派です。そこで、(一階のホールでも、二階の牧師館でもどちらでも構いませんから)新約聖書にあるとおり、種入れぬパンやぶどう酒を用意して、時間帯も夕方にあわせて、過越しの食事会をやってみてはどうかと思うのです。真剣にそのことを考えています。今年はちょっと急過ぎて無理だと思いますが、イエスさまが弟子たちと共に記念すべき食事会を催されたように、このような過越しの食事、晩餐を、現代の教会で行ってもいいのではないでしょうか。
少し横道にそれますが、新旧約聖書のいずれにおいても、共に食事をするという行為には大きな意味が込められていることが分かります。たとえば、創世記31章を読むと、ヤコブがラバンの家から家族と家畜を連れて伯父ラバンの家から脱走したときのことが書かれています。ヤコブはイスラエルの12部族の父となった人物です。ヤコブは、伯父ラバンのもとで14年間、一生懸命働き、その家畜の群れを大きくすることに貢献しました。しかし、伯父ラバンの長年の身内とは思えないような冷たい扱いに我慢できなくなりました。そこで、家族を連れてラバンの家から脱走したのです。これを知ったラバンは、一族を率いてヤコブを追いかけてきました。喜び歌ってお前を送り出してやりたかったのに、こっそり逃げ出すとは何事かといういいぐさです。しかし、本心はそうではありませんでした。ヤコブをそのままこき使い続けるつもりだったのです。二人の間には確執が生まれていました。そこで、二人はガルエドという場所で契約を結び、石の記念碑を立ててそこを境界としたとあります。水や草をめぐる紛争をさけるための境界です。そのあと、ヤコブは一族を招いて食事をしたと書かれています。伯父ラバンの家族もこの食事の席に参列したことでしょう。つまり、二つの部族の和解と新たな契約に基づく再出発が、この食事によって確かめられたのです。思うに、福音書において主イエスが行く先々で罪人たちと一緒に食事をされたことは、彼らにとって、その説教以上に確かな赦しのメッセージとなったのではないでしょうか。共に食事をするということが、福音を指し示す行為になったのです。
すでにご存じのように、本日の聖書箇所は、毎月第1週に礼拝の中で執り行われる主の晩餐式の際に、司式者によって読まれる箇所であります。主イエスは、この食事の席でかつてイスラエルを奴隷の地からイスラエルの民を導き出したように、ご自分を信じる弟子たち、いわばキリストの教会に、新たな解放が起こされることを確信して、この食事を行うように弟子たちにお命じになりました。それは、多くの人の罪を贖うために、ご自身が犠牲の小羊となって死ぬという覚悟をもって催された晩餐であります。並行記事であるルカによる福音書22章を読みますと、「わたしの記念としてこのように行いなさい」というお言葉があります。出エジプトを記念するためではない。イエスご自身を記念せよと言われるのです。やがてイエス・キリストの十字架の死と復活を通して、すべての人を罪から救い出すという神の贖いの業(わざ)が成し遂げられるのです。この食卓には、このあとイエスを裏切ることになるイスカリオテのユダも座っていました。そのような裏切者はこの晩餐の席から排除されるべきだと人は言うかもしれません。しかし、ユダがそこにいることが必要なのです。なぜなら、私たちもユダになり得るからです。ことによると、いつ何時イエスを裏切ることになるか分からない、そのような危なっかしさ、信仰の弱さを誰もが抱えているのではないでしょうか。イエスの一番弟子であったシモン・ペトロでさえ、大祭司の庭で主を見捨てて逃げ去るのです。イスカリオテのユダは、他人のことではありません。
主の晩餐が指し示す救いの業(わざ)には、もう一つの真理があります。それは、イエスご自身が小羊となって死なれることで、私たちと神との間に新しい関係が生まれたということです。イエスは、杯をとって言われました。「皆、この杯から飲みなさい。これは罪が赦されるように、多くの人のために流される私の血、契約の血である」この主の晩餐に与かることによって、私たちも古き自分に死ぬのです。そうして、新たな契約関係に入るのです。私たちが、月が改まるごとに、礼拝で主の晩餐式を執り行うのは神さまと新しい関係を結ぶためです。使徒パウロは、その消息を第二コリント書5章で次のように述べています。「一人の方が、すべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです」人が自分のためではなく他者のために生きるようになること、神さまが私たちに命を与え、この世で生きることを許してくださっているのは、自分のためではありません。私たちは他者とともに生きている。他者を思いやり、他者のために生きることを、神は求めておられるのです。『バカの壁』という本を書いた養老猛司という人が、次のように言っていました。現代の日本人が医療に多くのお金をかける一方で、介護や福祉にお金をかけないのは、肉体のcure(治療)ばかりを重視して、care(魂への配慮)を軽んじているからだ。それは、現代の多くの人が、ヘビやカエルがいない人の手で作った便利な大都市生活を求めるあまり、心の潤いを失くした結果だと思う、と。現代の教会に求められていることの一つは、私たちの心が豊かに満たされるような安らぎの場所となることではないでしょうか。
本日の箇所の最後で、イエスは「わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」と言われます。ここを読んだある人から、「信仰を持つとぶどう酒を飲めなくなるのですか」と聞かれて驚きましたが、この言葉は、禁酒を勧めることばではありません。そうではなく、来るべき神の国での食事を予告する言葉です。すなわち、イエスは「今度あなたがたと一緒に食卓に着く場所、それは天の御国なのですよ」とお語りになっているのです。最後の晩餐は、主イエスと弟子たちとがとった最後の食事でした。しかし、それで終わりではないのです。やがて、神の国であなたがたと共に食事に着くことになるだろうとイエスは言われるのです。その意味で、毎月第1週の礼拝で執りおこなわれる主の晩餐式は、来るべき神の国での食事(それは祝宴である!)の先取りであります。
お祈りいたします。