2025-04-06 主日礼拝説教
「ゲツセマネの祈り」
マタイ26:36-46
木村一充牧師
私たちは今、教会の暦でレント(受難節)と呼ばれる期間を過ごしております。先週の礼拝では、イエスが弟子たちと共に取った最後の晩餐の場面を読みました。今週は、この食事のあと、一同がオリーブ山に出かけたときのことを描く箇所を読みます。36節にこう書かれています。「それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、『わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい』と言われた。」 エルサレムは高台(丘)の上に建てられた要塞のような町で、空き地が少なく、過越しの祭りに訪れた巡礼者を収容するだけの十分な宿泊施設がありませんでした。そこで、巡礼者が祭りの間このような近隣の園で野宿することも珍しくなかったのです。ゲツセマネは、オリーブ山のふもとにあるオリーブの園で、「油しぼりの場所」という意味です。当時の人々は石で作った容れ物にオリーブの実を入れ、それを円盤のような丸い石を転がして押しつぶしながら油を搾りました。そのような油しぼり機がここにあったのでしょう。主イエスは、しばしばこの園に祈るためにやってきたと思われますが、この日は主イエスがエルサレムで過ごされた最後の夜となりました。最後の晩餐を終えてここに来る途中、イエスは弟子たちに言われます。「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。」「つまづく」と訳される動詞は、ギリシャ語で「スカンダリゾー」という言葉で、英語のスキャンダルの語源になった言葉です。日本語でスキャンダルというと醜聞と訳され、人をがっかりさせる、信用や評価を落とさせる事件というような意味合いで使われますが、ギリシャ語はもっと重く深刻な意味をもち、「神から離れさせる」「信仰を失わせる」という強い意味をもつ言葉になります。自分たちが主と仰ぎ、メシア、来たるべき時代の王と信じて、すべてを捨てて従ってきたこのお方が、十字架につけられ死なれるというのです。愛する主が犯罪者として処刑される。そのことがどれほど弟子たちに深い心の傷を残すことになるでしょうか。
作家の三浦綾子さんの作品に「氷点」という小説があります。1964年朝日新聞に応募した懸賞小説ですが、これは三浦綾子さんのデビュー作となった小説です。主人公の陽子は、医師である辻口啓造夫妻が、この子が殺人犯の子であると知りながら、養女として引き取り育てた女の子でした。陽子はやがて高校生になり、北原邦夫という大学生を恋するようになるのですが、順調に交際が進む中で、陽子との関係が悪かった母親の夏江が、北原と陽子の前で彼女の出自を暴露する、ということをします。その翌朝、陽子は自殺を図るのです。これが、この小説のクライマックスとなっています。人を愛したり、人を信じたりできなくさせる。罪にはそのような負の力、人をつまづかせる力があります。主イエスは、これからあと起きる事によって、そのような力が弟子たちに及ぶことを見越して、彼らの離反を予言されました。「わたしは羊飼いを打つ。/ すると、羊の群れは散ってしまう」と。しかし、これを聞いたペトロは、これに抗って言います。「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」他の弟子たちも皆同じように言ったとあります。弟子たち全員が、イエスを裏切るようなことはしないと言い切ったのです。けれども、実際はそうはなりませんでした。この箇所から学ばされること、それは、私たちの誰もが、神から離れ自分の信仰を失いかねない弱さを持っているということです。ペトロは何と軽率な弟子なのだろうと、自分のことを棚に上げて、彼を責めたり悪く言ったりできません。むしろ、私たち自身が弱いものであり、ペトロそのものであることを認め、そうならないように神に祈らなければなりません。私たちの信仰生活は、多くの試練や困難によって絶えず脅かされています。それなのに、最初から勝利を確信し、一切の恐れを無視して、祈る心さえ持たないということでは困ります。それは、武器も持たず、よろいも兜も身につけず、手ぶらで戦場に行く兵士のようなものです。この世の戦いは、それほど甘くはありません。来週の日曜日(4月13日)から、いよいよ受難週に入ります。その週の後半の木曜日から土曜日まで、AM6:30より受難週の早天祈祷会をおこないます。木曜日は、主イエスが弟子たちの足を洗った日です。金曜日は、聖金曜日と呼ばれ、この日に主イエスが十字架上で死なれます。そして、土曜日はユダヤの安息日であり、復活祭の前日です。一日一日が大切な日であり、この祈りの備えをもって、死と罪の力に勝利されたイエス・キリストの復活の朝を迎えるのです。
主イエスが、弟子たちを伴ってゲツセマネの園に着かれると、イエスはペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人の弟子を特別に選んでさらに奥へと進まれました。戦場で一家の主は、家族を安全な場所に移し、戦える成人した息子たちを連れて前線に出て行きます。それと同じです。3人の弟子たちは特別な主の兵卒だったのです。こうして奥に着くと、イエスは「悲しみもだえ始められた」と書かれています。ここで祈られた祈り、それは祈りというよりも、むしろ戦いでありました。イエスはここで自らの死を前にして、深い悲しみと苦悩の中で、祈りの戦いをなさっています。38節のイエスの言葉に「わたしは死ぬばかりに悲しい」とあります。原文では「わたしの魂は、死ぬほど悲しい」と書かれています。魂の次元で悲しんでおられるのです。このとき、主イエスはおよそ33歳でした。33歳の若さで死を願う者はありません。しかし、このお方には、果たすべき務め(ミッション)がありました。それは、世のすべての人を罪から救うというミッションです。もし、イエスがこの務めを放棄し、この園から離れ、オリーブ山を越えて故郷のガリラヤに帰ったとしたら、私たちは今こうして礼拝を捧げる者としてここに集まってはいません。神の救いの計画は頓挫してしまうのです。この時、イエスが知っておられたことはその神の救いの計画のためにただ前進することでした。しかし、それはあまりにも「苦き杯」でありました。
人間は誰もが死を恐れます。死が恐ろしいものであることをみんな知っています。しかし、果たして私たちは罪人として死ぬことの恐れを本当に知っているのでしょうか。自分の罪について鈍感になり、それを認めようともしない私たちが、主イエスが恐れた死の恐ろしさが分かると言えるでしょうか。
宗教改革者のM.ルターは「主イエスよりも大きな罪人はいない」と言いました。「イエス・キリストは唯一の大罪人である」とまで言い切ったのです。それは、主イエスが誰よりも大きい罪人の死を死ぬことを恐れた。イエス以上に罪人として死ぬことを恐れた人間はいないということです。神の子としてこの世に来られた方であれば、それは当然だったかもしれません。しかし、そのような死を私たちに代わって、私たちと共に味わわれることによって、私たち罪人の救い主となってくださったのです。
ところが、3人の弟子たちはこのゲツセマネの祈りの場で、主イエスが血の滴るような汗を流しながら祈っておられたにもかかわらず、みんな眠りこけていました。イエスは今日の箇所で「わたしと共に目を覚ましていなさい」と繰り返しておっしゃっています(38節、41節)。ここで「眠る」とは、通常の肉体の疲れによって休む、瞼を閉じて休むこと以上の意味が込められているように思われます。それは、私たちに襲い掛かるような罪の誘惑に対して、毅然としてこれを退ける心の目を開けているということです。イエスと共に生きるとは、私たちがこの世の誘惑を退け、サタンに勝つということです。バッハのマタイ受難曲には、バッハの代表的な作品ですが、この曲の中に、本日のゲツセマネの祈りの場面があります。テナーが「わたしはわたしのイエスのお傍にいて、目をさましていよう」と歌うと、それに応えるように合唱が続きます。「そうすれば、わたしの罪は眠り込む」今ゲツセマネの園で、自分たちの愛する主は、すべての人を救うために罪人となって死ぬ十字架の死を引き受けるために必死で祈っておられる。そのような大事な時、悠長に眠ってなどいられません。なぜなら、3人の弟子たちは、主イエスが特別に選び出した兵卒、祈りの戦士なのです。この期待に応え、一緒に祈らねばなりません。彼らが目を覚まして祈ったならば、罪のほうが眠らずにおられなくなるのです。
私たちの信仰生活もそうではないでしょうか。私たちがこの世の誘惑やサタンの誘いに対して、目を覚ましてこれを退け、罪に勝利すること、それが、主イエスと共に信仰の戦いを戦うということです。逆に、私たちが主と共に目を覚ましていられなくなった時、罪が目覚めて、私たちを捕えることになる。罪の虜とする。罪が活き活きと働きはじめるのです。目を覚ましていましょう。さらに、肉体の弱さゆえに、眠り込んでしまいそうになっている友のために祈りましょう。「わたしたちが目をさますと、わたしたちの罪は眠り込む」ゲツセマネの祈りは、私たちの罪の贖い、救いのために、イエス・キリストが祈ってくださった、目を覚まし続ける祈りであります。
お祈りいたします。