栗ヶ沢バプテスト教会

2025-04-20 イースター礼拝説教

朽ちないものへの復活

Tコリン1542-47

木村一充牧師

 

 本日はイエス・キリストの復活をお祝いしてささげるイースター礼拝の日曜日です。先週の一週間は教会の暦で受難週と呼ばれる週であり、後半の木曜から昨日土曜日にかけて、受難週の早天祈祷会がおこなわれました。とくに、主イエスがお亡くなりになった金曜日(418日)は「聖金曜日」と呼ばれる特別な一日でしたが、この日は、対面とZoom参加の合計5名の出席者のもと、早天の祈りの時をもちました。主イエスは、この金曜日の夜明けまえに、大祭司カヤファの家で神殿当局によって裁かれ、それが終わると今度はローマ総督ピラトの官邸に連れてゆかれ、そこで二度目の裁判を受けます。このローマ総督ピラトの前でおこなわれた裁判で、主イエスが十字架の刑に処せられることが決まりました。

 先週の日曜日、礼拝後の教会学校の分級クラスで、マタイによる福音書27章を共に読みました。主イエスが十字架を負ってゴルゴタと呼ばれる丘に向かう道は、ラテン語でヴィア・ドロローサ(苦しみの道)と呼ばれますが、主は、その苦しみの道を途中で何度も倒れながら、重い十字架を背負って歩まれます。そして、処刑場につき十字架につけられました。そこで、ローマの兵士たちはイエスに苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしますが、イエスはそれを飲むことをされなかったと聖書に書かれます。苦いものとは没薬と言われる薬のことで、痛み止めの効果があったといわれます。一種の麻酔薬をぶどう酒に混ぜて飲ませようとしたわけです。

 そこを通りかかった人々は、十字架のイエスを見ていいました。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」同じように、神殿当局の指導者たち(祭司長、長老、律法学者たち)もイエスをののしっていいます。「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう」ここで、イエスを嘲った人々が言っていることは、要するに自分たちの信じる神は「苦しまない神」だということです。もしイエスよ、あなたが神の子なら、その苦しみから逃れることができるはずだと言っているのです。神を信じない人のほとんどがこれと同じことをいいます。神さまなどいない。もしいるなら、私がこのような病気で苦しむはずがない。神は苦しみと無縁のお方だ。苦しみを引き受ける神など神ではないという理屈です。それは人間が作った神ではないでしょうか。しかし、キリスト教信仰はそうではありません。そもそもクリスマスにおいて起きたことは、神が人間となられたということです。それは、それによって神が私たちと共に生きてくださるためです。神が人間の姿をとり、人間の弱さや悲しみ、何よりも人間の罪と罪の結果としての死を共に背負う神になってくださったのです。ですから、この場面で主イエスは十字架から降りるわけにはいかないのです。

 さらに、主イエスが十字架から降りることをなさらなかったもうひとつの理由があります。それは、イエス・キリストの物語は十字架の死で終わらないということです。確かに主イエスは地上の生を終え、肉体における死を経験されます。しかし、神はそのイエスを復活させ、輝かしい霊の体、栄光の体に変えて天にまで引き上げてくださいました。十字架で死なれた主イエスと、再び肉体の姿でお会いすることはできません。しかし、それで終わるのではないのです。ヨハネ福音書14章によれば、父の御許(みもと)に帰るイエスが弟子たちを前にした告別説教で次のように語っています。「しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。」わたしの代理人としての聖霊が、やがてあなたがたのところに来るというのです。イエスの物語は続くのです。イエス・キリストの復活とは、有限な存在であった人間イエスが、十字架の死の三日後に神の力によって、その死体さえも消失させられ、霊の体へと変えられた出来事です。これによって、私たちはいつどこでも霊の体をまとうイエスさまと出会うことができるようになったのです。この霊の体への復活を成し遂げるためにも、イエスは十字架から降りて来ることはなさいませんでした。

 本日のお読み頂いたコリントの信徒への手紙一15章で、パウロは死者の復活をめぐってコリント教会の信徒たちから提示された質問に答えています。それは、死者はどんなふうに復活するのか、という質問です。しかし、そのことはだれも本当には知らないことです。ゆえに、この世の知恵や論理で復活は説明できません。ただし、比ゆ的になら説明出来ます。パウロはそれを次のように述べています。「死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。」すなわち、復活とは、地中に蒔かれた一粒の麦から新たな芽が出て、麦の穂が成長するように、また、地中の球根から芽が出てチューリップの花が咲くように、古き体が死んで新しい体が始まるのです。パウロは、そのような命の変容を「つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。」と説明しています。たちは、地上の生を肉の体から出発します。しかし、イエス・キリストという救い主と出会い、その復活の霊と命を頂くならば、私たちもやがて聖霊をこの身にまとうことができるようになるのです。それは、まさに第二の誕生、新生(新しく生まれること)体験であります。パウロはそれを「キリストを着る」とい言葉で表現しています。すなわち、古き自分の不完全さや罪、弱さや欠けが、すべてキリストの霊によって覆い尽くされ、私たちの心が聖霊でみたされるのです。イエス・キリストが復活したことは、神さまが、イエスを死んだままにして捨て置かなかったということです。そうではなく、今も生きて働く神となられたのです。この事を通して、神は罪と死に対して勝利されたのです。

 本日はこのあと一人の姉妹のバプテスマ式がおこなわれます。主の復活をお祝いするイースターのよき日にバプテスマ式が行われ、古き自分に死に、新たな命によみがえる魂が私どもの教会に与えられたことを心から喜びたいのであります。

お祈りいたします。