2025-04-27 主日礼拝説教
「大宣教命令」
マタイ28:16-20
木村一充牧師
主イエス・キリストは週の初めの日曜日、マグダラのマリアともう一人の婦人の前で、復活したそのお姿を現わされました。婦人たちはイエスの足を抱き、ひれ伏して拝んだと書かれています。イエスは彼らに言われます。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」マグダラのマリアは、この主のお言葉をペトロを初めとする11人の弟子たちに伝えました。これを聞いた弟子たちは、復活の主と出会うために故郷のガリラヤへ帰ったのであります。エルサレムからガリラヤに帰るには、大人の足でも1週間はかかります。しかし、この時の弟子たちの足取りは軽かったことでしょう。ほんの数日前、彼らはイエスが逮捕される直前にイエスを見捨てて逃げ去るということをしました。主の十字架の死の場面、処刑場には誰もいなかった。要するに、彼らは皆イエスを裏切ったのです。もはや弟子と名乗ることもできないような負い目、深い心の傷を持つ人間だったのです。しかし、そのような彼らに対して「ガリラヤで会うことになる」とイエスは言われます。そんな彼らを見捨てはしないというのです。彼らは復活の主にお会いできることを待望しながら、しかし、愛する主の最後の場面にだれもいなかったことを恥じ、悔い改めの思いを抱きつつ、主イエスが指定された山を目指して、その足を進めたのでありました。この山は、もしかしたら、かつてイエスが弟子たちを前にして「幸いなるかな、心の貧しい者」とお語りになったあの山上の説教を語られた山であったかもしれません。だとすれば、復活の主イエスとの出会いは、いっそう思い出の深い、懐かしい場所での再会となったことであろうと思われるのです。
こうして、彼らはこの山で復活の主と出会いました。嬉しかったことでしょう。17節には「そして、イエスに会い、ひれ伏した。」とあります。この「ひれ伏した」と訳されるもとのギリシャ語が、全く同じ言葉でマタイによる福音書14章33節にも使われています。主イエスが弟子たちを船に乗せ、湖の向こう岸に向かわせるために、強いて先に送り出した場面です。舟は逆風に悩まされ、弟子たちは難儀していました。そこに、イエスが湖の上を歩いてこられたのです。ペトロは、これを見て言いました。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」そうして、湖の上を歩いてイエスの方に向かいました。そころが、風を見て怖くなり、沈みかけた。ペトロが「主よ、助けてください」と叫ぶとイエスは手を伸ばしてペトロを引き上げます。二人が舟に乗ると、風は静まりました。舟の中にいた弟子たちは「本当に、あなたは神の子です」と告白して、イエスを拝んだと記される場面です。この「拝んだ」が本日の「ひれ伏した」と全く同じ言葉です。主イエスの驚くべき御業とそのことを通して示される神の圧倒的な力を前にして、弟子たちは頭を地につけるようにして、イエスを拝んだというのです。しかし、本日の26章には、14章にはないもう一つの言葉が記されています。それは「しかし、疑う者もいた」という言葉です。彼らは自分たちの目で復活のイエスのお姿を見ているのです。復活の主と会っているのです。それなのに、それを疑う者がいたと聖書は記しています。それはどういうことでしょうか。
内村鑑三という人がおります。明治期の半ばに活躍した教会の指導者で、無教会主義を唱えつつ、キリスト教を伝え広めた人です。この人は一高の教師として教鞭をとっていましたが、不敬事件で教職から追われ、のちに「萬朝報」という雑誌を通してキリスト教の啓蒙活動をおこなった人物でした。内村鑑三の門下には、矢内原忠雄先生を始めとするそうそうたるお弟子さんがおります。その内村鑑三には、ルツ子という女の子がいました。このお嬢さんが今の高校生くらいの年齢で亡くなりました。内村鑑三は、娘さんの死期が近づいていることを知り、亡くなる数時間前に自分の娘に洗礼を授け、さらに聖晩餐の式をおこなって娘にパンとぶどう酒を与えたといいます。その聖晩餐が終わったときに、お嬢さんは「お父さま、ありがとうございます。」と述べ、「わたしは行きます」と言って息を引き取ったそうです。追って葬儀が行われた際に、内村鑑三は「ルツ子、万歳」と叫んだというのです。私たちは、子どもが生まれるとそのご家族に対して「おめでとう」と言います。しかし、人が亡くなったときに「おめでとう」ということはしません。そんなことを言ったら、失礼だ。この人は格別の悪意を故人に対して抱いていたのではないか、ずいぶんな嫌味を言う人だ、非常識な人だと、そのようにいっぺんでご遺族から恨みを買うことになるのがおちだ、ということになるに違いありません。しかし、もしも私たちがイエス・キリストの復活を心から信じ、主の十字架と復活によって、永遠の命が私たちに与えられていることを、リアルに(現実の事柄として)信じるならば、その人が召されるときにも「おめでとう」と言えなければいけない、内村鑑三と同じように「ルツ子、万歳」と言えなければいけない。それが、キリスト者の生き方ではないか。そのような問いが、ここで私たちに提起されているのではないでしょうか。しかし、それこそ実際に(リアルに)私たちは、愛する人の死を前にして「○○さん、召されてよかったね」と本当に言えるだろうか。本日の箇所で、復活の主を目の前で見ながらもそれでもなおそれを「疑う」弟子がいたということは、私ども人間の内面,心の中を映し出しているように思われるのです。
復活のイエスが弟子たちにそのお姿を現わした時、彼らに真っ先に語られた言葉が、次の言葉でした。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。」地上で権力を奮い、多くの民を跪かせてきた王は、これまでの歴史で何人もいました。ローマ皇帝アウグストスがそうでした。ダビデ王国を滅ぼしたバビロンの王ネブカドレザルもそうだったかもしれません。ただ、彼らはたとえ地上では権力や権威をもっていたとしても、天においてはそうでなかった。しかし、イエスは天と地の両方で、一切の権威を授かっているというのです。このお方こそ、まことの権威を持つ王であり、救い主であります。そのような王としてのキリストが、ここで弟子たちに次のことをお命じになります。「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」イエス・キリストはユダヤ人の王としてこの世においでになりました。しかし、このお方は、自分たちの民族を救うためだけに十字架上で死なれたお方ではありません。そうではなく、すべての民族、人種、異なる言語を話す人々を救うために、即ち全世界の救いのために、死んで復活されたのです。ところが、21世紀を生きる現代において、アメリカ、ロシア、中国などの大国が、軒並み自分たちさえよければほかはどうなってもいい、というような経済政策や外交政策をとっています。主イエスは、狭い民族主義的な考えを打ち破って、すべての人をご自分の弟子として呼び集めようとされました。ところが、現代世界のリーダーたちはこれに逆行しているのです。自分たちさえよければ、という自己中心の思いを各国の指導者たちが捨て去ること、それが世界の平和を作り出すために一番に求められていることではないでしょうか。
二番目に、復活の主が言われた言葉が「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授けよ」というご命令です。バプテスマとは、イエスは主なりと告白し、古き自分に死に、新しい命に生きるために全身を水に沈める象徴としての儀式です。私たちの教会でも、そのバプテスマが、先週の日曜日に執り行われました。礼拝のあと、午後に壮年会の集まりがありました。その集まりの席で、ある方が私にこう話されたのです。自分は中学生くらいの年でバプテスマを受け、それ以来自分の信仰のことを顧みる機会はなかった。けれども、今日のバプテスマ式を見て、「自分はあのときの信仰告白で、いったい何を信じていると告白してバプテスマを受けたのかと思うと、それを思い出せない。木村先生、もう一度バプテスマを受けることができますか?」私は、それを冗談で言っているとは思えませんでした。バプテスマとは、罪の体に死に、新しい命に生きる、その新生の命に与かる儀式です。ところが、私たちはその古き自分に死にきっていないのではないか。半分しか死んでいない。言わば、「半死に」のままではないでしょうか。だから、この世の誘惑、サタンの誘いがあると、簡単にそれに絡み取られてしまうのです。しかし、信仰に生きるとは、罪の身に死ぬことです。お金や権力などのこの世の力、或いは自分の力に頼るのではなく、神の支配の下にわが身を投げ入れること、神さまにすべてを委ねて生きることです。そして、そうやって生きる方が、本当は楽であり、魂も平安なのです。
三つめが「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」という言葉です。「あなたがたに命じておいたこと」とは何でしょうか。それは煎じ詰めれば次の二つです。第一は、「心を尽くし思いを尽くし、力を尽くして主なる神を愛すること」、第二は「あなた自身を愛するように、あなたの隣人を愛すること」以上は、要するにイエス・キリストにならって生きる、ということです。ユダヤ人のようにさまざまな戒律を守る必要はありません。神への愛と隣人への愛に生きることです。垂直方向への愛と、水平方向への愛を実行することです。そして、簡単そうに見えてこれが難しいのです。なぜなら、人は自分を愛するように、隣人を愛することができないからです。
そのために、復活の主イエスは弟子たちに「教えること」をお命じになりました。教えるとは知識を身につけさせる、ということではありません。そうではなく、神の御心(みこころ)に従って生きること、どんなことがあっても、神さまから離れない。イエス・キリストにしっかりとつながって生きる、ことを体で学ばせるということです。そのためには、先にキリストの弟子となった私たちが、神さまを喜ぶことが大切ではないでしょうか。人に何かを命令されると、私どもはしばしば反発したり、ましてや、それを喜ぶことなど、できないものです。しかし、神さまのご命令はそうではありません。それに従うと、喜びが湧いてくるのです。旧約聖書の詩編119編14節に次の御言葉(みことば)があります「どのような財宝よりも/ あなたの定めに従う道を喜びとしますように。」主が示される道をまっすぐに歩むこと、それがどんな財宝よりも喜ばしい宝だと詩人はここで言います。信仰に生きるとは、それくらい大きな喜びなのです。主がお命じになった「弟子とすること」、「バプテスマを授けること」、「主の戒めを守るよう教えること」を、当教会の25年度の目標として歩みたいと思うのであります。
お祈りいたします。