2025-05-11 主日礼拝説教
「沖へ漕ぎ出せ」
ルカ5:1-11
木村一充牧師
この朝与えられた聖書箇所はルカによる福音書5章1節以下であります。ここには、シモン・ペテロが主イエスの呼びかけに応え、すべてを捨ててイエスの弟子となった経緯が詳らかに記されています。この箇所を読むと、多くの人は、一人の人間がそれまでの生活を捨てて、これほど急に劇的に、献身して主の弟子になれるだろうかと疑問に思うのではないでしょうか。私もそうでした。ただ、本日の箇所の少し前のところ、同じページの上の段落(「多くの病人をいやす」という小見出しのある段落)を読むと、36節に「イエスは会堂を立ち去り、シモンの家にお入りになった。」とあります。このシモンとはペトロのことです。ペトロの姑(妻の母親)が高熱で苦しんでいたところ、主イエスが訪ねて来て家に上がられ、熱を叱りつけ、彼女の病を癒されたというのです。これを聞きつけた人たちは、病人たちを引き連れてイエスのもとにやってきました。イエスは、それら一人一人の病人の頭に手を置いて病を癒された、と書かれています。このことから、シモン・ペトロの家は主イエスのカペナウムでの福音宣教の働きの拠点になったのではないかと見る人もいます。ペトロは、主イエスの驚くべき癒しの業をその目で繰り返し見ていました。しかし、それが自分自身の事柄にはなっていませんでした。主イエスへの恩義は感じていても、その弟子となるまでには至っていなかったのです。本日の物語にはそのようないきさつがありました。
そこで本日の箇所に入ってゆきます。場所は「ゲネサレト湖」のほとりです。ゲネサレト湖とはガリラヤ湖のことです。現代は「キネレト(竪琴)」の海と呼ばれています。ここはヘルモン山の雪解け水がヨルダン川を通して流れ込む淡水湖で、南北が20キロ、東西の幅が12キロです。ざっくりと言えば、山手線内の面積を縦、横ともに1,5倍拡大した大きさです。湖の深さは最大で60メートルということです。相当な深さですね。淡水湖で魚が豊富に取れました。フナ、もしくはタイに似た黒っぽい魚が有名で、かつてイスラエルを旅行した時に私たちも食べました。ペトロはこのガリラヤ湖で、漁師として生計を立てていたのです。ペトロは、その日夜通しの漁の仕事をしましたが、残念ながらその日は全く成果がありませんでした。徹夜の仕事を終え、漁師たちは網を洗っていました。そこをイエスが通りかかりました。周りには大勢の群衆が押し寄せています。そのような中では、落ち着いて神の言葉を語ることもできません。見ると、二艘の舟が岸辺に置いてあります。そのうちの一艘はペトロの舟でした。そこで、イエスはペトロに声をかけ、この舟の上から群衆に説教を語りかけたいから、少し漕ぎ出してくれないかとお頼みになりました。ガリラヤ湖は湖面の海抜がマイナス200メートルという低い場所にあり、形状はすり鉢状になっています。湖から見ると、ちょうど劇場の客席のようになっていてその声が岸辺の人にもよく聞こえたのです。イエスはそのペトロの舟に腰をおろして、福音の言葉を語りはじめました。なぜ、二艘のうち、ペトロの舟のほうを選んだのでしょうか。それは、ペトロと既に面識があったからということでしょう。しかし、考えてみれば、ペトロはこの時夜通しの漁の仕事を終え、疲れきっていたはずです。早く家に帰って寝てしまいたい気分だったでしょう。もし、私がこの時のペトロだったら、いやだなと思ったに違いありません。けれども、イエスは敢えてペトロの舟を指定して、舟を漕ぎ出すように言われました。なぜでしょうか。
ある説教者は、主イエスはこの時、ペトロには神の言葉を聞いて、それを敏感に感じ取る力があるということを見抜いていたのではないかと説きます。だとすれば、この時主イエスがペトロに舟を漕ぎ出させたのは、単に群衆たちに神の国の福音を伝えるためだけでなく、もう一つの目的があった。それは、ペトロに、神の国の福音を聞かせるためであったということです。もし、ペトロに御言葉(みことば)を聞くセンスがなければ、この時のイエスの説教は「早く終わってほしい」と願うただの話です。しかし、ペトロはそうではありませんでした。この時主イエスが語られる神の言葉を、新鮮な驚きを持って聞くことができました。舟のかじ取りに注意しながらも、イエスのすぐ隣、いわば特等席で聞いたのです。主イエスは、横にペトロを置いて、神さまのことをもっと深く知り、自らの救いに関わるメッセージとして聞いてもらいたい、という思いを込めて、御言葉(みことば)を語ったのではないかというのです。そうかもしれません。
ところで、主イエスのために、自分の舟を沖へ少し漕ぎ出して説教の場所を提供する、このことは現代の私たちの視点から言えば、神さまのために奉仕することです。もし、ペトロがこの奉仕を断っていたら、このあとの驚くべき体験は生まれませんでした。私たちの奉仕もこれと同じではないでしょうか。私自身のことを申して恐縮ですが、私は出身教会である常盤台教会でバプテスマを受けた翌年、大学3年の秋に当時常盤台教会が支援していた山形教会(当時は教会組織を終えていない、小さな伝道所でしたが)を応援するために、伝道隊の一員として青年会代表として、伝道委員長と一緒に山形に行かないかとのお誘いを受けました。壮年会より1名、女性会より1名、青年会より2名という4人のチームで、土日二日間の伝道キャラバンを組み、東北自動車道を北へと向かう旅に出たのです。これは、ある意味で強いられた奉仕でした。しかし、この一泊二日の山形への伝道旅行を通して、私は主なる神さまに従うということがどういうことかを、調弘道牧師ご一家の働きぶりを見せて頂くことによりはっきりと知ることができたのです。私たちも、主イエスキリストのお姿を鮮やかに見る恵みに与かることがあります。それは、弱さを覚えながらも神さまのために奮起して、主のために舟を沖へ漕ぎ出すというような奉仕をすることによって、ではないでしょうか。神さまは、具体的な実践を通して、私たちの信仰を成長させてくださるのです。
こうして、イエスの舟上での説教が終わりました。どのようなお話しぶりだったのか。身振り手振りを交えながら、口角泡を飛ばすような力強い話しぶりだったのか。それとも、穏やかな口調でありつつも、そこに確かな説得力のあるお話しだったのか、定かではありません。小一時間ほど時間が流れていたのでしょうか。イエスは群衆たちを解散させました。ペトロは、「さあ帰りの支度だ」と思ったことでしょう。ところが、イエスは、次にそのペトロに向けて言葉を語られます。4節です。「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」これは、想定外の主のご命令です。自分は漁師として、このガリラヤ湖で何十年もの間魚を取ってきた。魚の動きは誰よりもよく分かっている。私はプロなのだ。イエスよ、あなたは大工の息子でしょう。この湖では、魚は夜餌を求めて活動するのです。日が昇ると、魚は日陰でじっとして身を隠すのです。私は、昨夜一晩中網を打って仕事に励みましたが、一匹も取れませんでした。徹夜の漁で疲れ果て、心も体もへとへとです。再び、沖へ漕ぎ出して網を打つ気力などありません。無理です。そんな反発の言葉が次々湧きあがってきたことでしょう。ガリラヤ湖の漁は、夜の間に行われるのです。
しかし、ペトロはイエスのご命令に対して、この時こう答えました「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」「しかし、お言葉ですから」これが、本日のキーワードです。ガリラヤ湖での漁なら、自分はスペシャリストだ。自分の経験と知識によれば、網を打っても無駄だと思う。しかし、イエスよ、あなたがそうおっしゃるなら網を降ろしてみましょう。ペトロはイエスのご命令を「神の言葉」として聞き、それに従ったのです。人間の知識や経験にもとづく知恵を飛び越えた神の言葉への服従、それが沖へ漕ぎ出して網を打つということでした。こうして、漁師たちがその通りにすると、なんということでしょう。夥しい魚が取れて、網が破れそうになったのです。そこで、仲間の舟に合図をして加勢に来てくれ、と頼まねばならないほどでした。網を引き揚げてみると二艘の舟が魚でいっぱいになり、その重さで舟が沈みそうになったというのです。
それはプロの漁師であったペトロ自身が、それまでに経験したことのない出来事であったに違いありません。神の言葉に従うことで、浅はかな人間の知恵や力量ではとうてい経験することのできない成果や恵みの業を見ることができたのです。ペトロは、この神の全能さと聖さを前にして恐ろしくなりました。たとえば、雪国に生まれた人が3メートル程度の積雪を見ても、何も思わないかもしれない。しかし、これが10メートルであればどうでしょうか。御言葉(みことば)に従わないと、この身が危ういと思うことでしょう。旧約の預言者であるイザヤという人もこれと同じ体験をしています。イザヤもまた天に座している主のお姿を見て、「災いだ。わたしは滅ばされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者」と告白して、自分の罪を告白しました。自分が何者かであるかのように思いこみ、自分を神とする思いを神は断固として退けられます。ペテロもこの体験によって、自らの罪深さを悟りました「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」すぐ上の段落を読むと、42節でカペナウムの群衆はイエスが「自分たちから離れて行かないようにと、しきりに引き止めた。」とあります。それは、イエスによって病気を癒されたいという利益を得るためです。しかし、ペトロは大漁を目の当たりにして「主よ、わたしから離れてください」と言いました。今、二人は舟の上にいます。舟の中は魚でいっぱいです。イエスが離れるとなれば、湖の中に飛び込まなければなりません。神の神聖さ、神々しさに触れるとき、人は近寄りがたい思いを抱くのです。魚が一杯取れたことを喜んで、主に従ったのではありません。そうではなく、自らの罪深さを告白して主の弟子になったのです。神への畏れを持つ、それがイエスの弟子となり、召命を受けるに不可欠の事柄です。前任教会の初代牧師、副田正義先生はこの箇所から説教をすることが多くありました。そこで言われたことは「信仰とは、向こう見ずの神への信頼である」という言葉です。この先何が起こるかわからないのです。しかし、何があろうとも神を信頼して、歩み出すのです。
イエスはペトロに「沖へ漕ぎ出して、網をおろせ」と言われました。ギリシャの原語では「沖」という言葉ではなく、「深みへと漕ぎ出せ」と書かれています。深さ50センチではなく、数十メートルの深みへと漕ぎ出せと主イエスは言われるのです。私たちも、安全な浅瀬に留まっていてはなりません。自分にとっては困難で、とても無理なことに思える、ある意味の冒険に似た深みへと漕ぎ出してゆかねば、驚くべき神の御業(みわざ)を見ることはできないのです。私たちもペトロと同様、弱く罪深い者です。しかし、神の言葉に信頼し、勇気をもって深みへと漕ぎ出し主に従う魂を、主は、ペトロと同じように取り扱ってくださいます。神の言葉に聞き信頼してこれに従う者に、神は驚くべき御業(みわざ)を起こしてくださるのです。
お祈りいたします。