2025-05-18 主日礼拝説教
「ベトザタの池での癒し」
ヨハネ5:1-9
木村一充牧師
かつて福岡の西南学院大学で神学生として学んでいた二年目の年に、一つ上の学年の先輩神学生から、その人が取り組んでいた卒業論文について話を聞く機会がありました。彼の卒業論文のテーマは「説教とは何か」というものです。その先輩は私にこう聞くのです。「木村君は、説教とは何だと思うか?」当時、未だ20代前半で、血気さかんだった私は、教科書にあるとおり「説教とは、神の言葉を救いの知らせとして、つまり福音として力強く人々に伝える教会の働きだ」と答えたように思います。先輩は「木村君らしい答えだね」と応じた後で、自分はいま英国最大の説教者と言われているチャールズ・スポルジョンの本を読んでいるが、その本の中で、スポルジョンは「説教とは慰めの対話である」と定義しているというのです。それはすなわち、日曜日ごとに礼拝に集う会衆の一人一人が、それぞれに心の内に悲しみや痛み、生きる苦しみ、老いや病の苦しみを抱えている。礼拝で説教者が語る言葉は、そのような会衆の一人一人の声なき声を聞きながら、神の言葉を「慰めの言葉」として取り次ぎ語りかける、そうやって語り手と聴き手が説教を通して相互に対話する、そのような「慰めの対話」が説教だとスポルジョンは説いているというのです。当時まだ20代前半であった私には、その意味が、正直に申し上げてよく分かりませんでした。しかし、今この年になって、この先輩神学生の言葉とチャールズ・スポルジョンが言おうとしていることがよくわかるのです。実際、私たちの教会でも入院している方がおられ、さまざまな弱さを抱え、介護なしには生活できない高齢の方がおられる。ほかにも仕事の問題、日常生活や経済の問題で悩みや苦しみを抱えている方がおられます。生、老、病、死で表される人生の苦しみが、私たちの定めの如くに私たちを捕らえています。説教の言葉は、その人たちの現実を背負っている。私たちはその現実、人生の苦悩と向きあい、これと身近にお付き合いしながら生きている。人生の苦悩は、言わば、私たちの「親戚」ではないでしょうか。
この朝お読みいただいた聖書の中に出て来る人物も、まさしくそのような苦悩の中にいた人物であります。本日のヨハネ福音書5章によりますと、イエスはユダヤ人の祭りに合わせてエルサレムに上られました。この祭りは過越しの祭りと呼ばれるユダヤ最大の祭りで、ユダヤ全土から、人々ハは犠牲のささげものを携え、もしくは神殿の境内で買ってこれを神の前にささげ、罪の赦し、神の祝福と恵みを頂きました。そこでは、ユダヤ人は神の民として生きる証しとして、貧しい人への施しをすることが求められました。エルサレム神殿の周辺には、礼拝をささげるユダヤ人からの施しを求める人々が大勢集まっていたのです。2節に登場する「ベトザタ」と呼ばれる池ですが、前の口語訳では「べテスダ」の池と書かれていました。こちらのほうが、馴染みのある名前かもしれません。その意味は「憐れみの家」というものです。この池には五つの回廊があったとあります。回廊とは、建物や中庭を取り囲むように作られた屋根のある通路のことです。だとすると、この池は五角形だったのでしょうか。そうではありません。この池は、四角形の池が北側と南側に二つあり、その真ん中をちょうど「天の橋立」のように上と下を隔てるようにもう一つの廊がありました。つまり、上から見ると回廊は、漢字の「日」のような形状で四角い二つの池の周りにあったわけです。この回廊に病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが大勢横たわっていました。その中に38年もの間、病気で苦しんでいる病人がいました。この人が本日の主人公です。これを読んで、ここに集う大勢の人は、自分とは違う可哀そうそうな人、気の毒な人たちだと思ってはなりません。私たちもまた癒しが必要であり、苦悩を背負って生きています。いつ何時病を得て倒れるかわかりません。即ち、私たち自身が、ここに集う病気の人であり、目の見えない人であり、足の不自由な人であります。その意味でこのべテスダの池は現代の病院のようなところだったと言えるかもしれません。しかし、さらに心に刻んでおくべきことは、そのようなところに主イエスが来られたということです。イエスはここでそのような人々と出会い、声をかけ、そして起き上がるように促された。要するに、苦悩の中に横たわる私たちの現実のただ中に、イエスによる救いがあると聖書は語るのです。
彼らが、この池の周りに大勢集まってきたのには理由がありました。新共同訳聖書をお持ちの方は、3節の最後に十字架のマークがあることに気付かれると思います。そして次は5節に飛びます。その意味は、この新共同訳聖書の原本として採用した写本には抜け落ちているが、ほかの写本にはさらに3節bから4節として別の文があるということです。それがこの福音書の最後にあります。212ページをお開きください。実は、この隣接した二つの池ですが、北側の池の方が少し高い所にあり、南側はそれより低い所にあります。たまに、北側の池の地下水が南側に流れ込む時、池の水が泡立つという現象が起こりました。それは天使が降りてきて引き起こす業であり、泡立ちが起きたときに真っ先に飛び込む者は、どんな病気でも癒されると信じられていたのです。その言い伝えを信じ、真っ先に池に飛込み、癒されようと思って、大勢の病人が池の周りに集まっていたのです。イエスは、その人がそこに横たわり、もう長いあいだ病気であったことを知って「良くなりたいか」とお聞きになりました。不思議な言葉です。病気が治ることを願わない病人など一人もいないからです。当然、「はいそうです。よくなりたいのです」と答えるところです。ところが病人は答えました。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」この言葉は、聞き流すことができない言葉です。この回廊にいる人は、私たち自身のことだと先ほど申しました。ここは社会の縮図です。人を押しのけてわれ先にと飛び込む、そのような厳しい競争社会がここにもあるというのです。彼の38年間の苦悩の根底、根っこにあった問題は、「人がいない」ということでした。自分を助けてくれる人、自分と苦しみを共にしてくれる人、そのようにして自分を癒してくれる人が彼にはいなかった。人間の病や苦悩をさらに深刻にする、決定的に大きな現実の一つ、それは人がいないということではないでしょうか。換言すれば、愛の欠如ということです。苦難から癒されるために、人は自分を受け入れてくれる人が必要なのです。ところが、せっかく「べテスダ」つまり「憐れみの家」という立派な名前を持ちながら、この池には人がいなかった。憐れみや愛がなかったのです。そう考えると、今回の祭りでイエスがこの池を訪ねたのは、決して偶然ではなかったと思います。確かな目的をもって、病の苦しみの中にある人々を救うために、イエスはそこを訪れ、病人を助け起こすことで、このべテスダの池を本当の意味で「憐れみの家」「愛の家」に変えようとされたのです。
先週のことですが、私はテレビでNHKの朝のニュース番組を見ました。そこでは、引きこもりの問題がとりあげられていました。みなさん、今のわが国でいわゆる「引きこもり」と呼ばれる人がどれくらいいるかご存じですか。なんと140万人を超えると言います。その朝紹介されたのは、山口県に住む54歳の引きこもりの息子とその82歳の父親でした。ずっと二階の部屋にこもり、何もしないで年を重ねていく息子を前にして、父親は「何でもいいから、仕事をしろ」と息子を責め続けたといいます。しかし、息子は心を開きません。そのような中、父親は引きこもりの問題で、自分と同じような悩みを抱える人々に力になってくれるNPO法人があることを知り、その研修会に参加しました。その研修会は3日間続きました。その中で父親が学んだこと、それは当人を否定ではなく、肯定から受け止めるということでした。それ以来、父親は息子と一緒に過ごすよう心がけました。一緒に買い物に出かけたり、ドライブをしたり、さらには息子さんに声をかけて、子どもの頃よく頼んだ背中のマッサージをしてもらった。そのような無心で本気の関わりを通して、息子さんは父親に次第に心を開き、自分の思いを話すようになったといいます。自分だってこのままではいけない、家族に迷惑を掛けたり、心配させてはいけないことはわかっている。しかし、以前勤めていた最初の職場で、仕事の失敗を上司からとがめられ、何度も他の社員の前で怒鳴りつけられるという経験をした。それ以来、それがトラウマになり一歩踏み出すということができなくなってしまったのだと。父親は、黙ってそれを聞き、話してくれてありがとうと受け容れたそうです。そのことがあってしばらくして後、息子さんは近くにある会社を見つけて、何とそこで働き始めたというのです。テレビの中で、82歳の父親は「ただただ、感無量です」と話していました。
この病人は、38年もの間病気と付き合っていました。全然病気がよくならない。癒されることはない。その絶望感に支配される中で、いつしか自分の力で起き上がることをあきらめていたのではないでしょうか。ことによると、「このままでいい。治らなくてもいい」と思っていたかも知れません。彼を助けてくれる人がどこにもいないという現実が、さらに彼の心を頑なにしました。しかし、そこにイエスが来られたのです。あたり一面病人だらけ、絶望しかないという光を失ったその世界に、神の子が来られたのです。そして、言葉をかけてくださいました。彼の病、彼の苦しみ、彼の心の傷、そのすべてを理解し、それを受け止めたうえで、そのようなあなたを癒すことのできる者がいると主は言われるのです。その言葉が8節の言葉です「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」この言葉は「わたしと一緒に立ち上がろう。わたしと一緒に起き上がろう」という意味です。これに応えて、彼は床を担いで歩き出しました。彼は、イエスの言葉によって歩み出したのです。
私は想像するのですが、このとき主イエスは手を差し伸べて、この病人を助け起こされたのではないでしょうか。たとえそうでなかったとしても、イエスはこのときこの病人と同じ低みに身を置きながら、この人と連帯し、この人が自分で立ち上がることをだれよりも強く願い、そして喜ばれたに違いありません。先ほどの82歳の父親が息子にしたように、この病人が自分の足で立つことを喜び、それまでの闇の中ではなく、光の中に生きるように願った。そのイエスのあわれみの眼差しの下で、彼は立つことができたのです。私たちの教会もまた、べテスダの池のようなところです。この世の戦いでうちひしがれ、傷つき、悩みを抱えながらふたたびこの会堂に集い、神の前に向き合っているのです。そのような私たちに、イエスの慰め、憐れみの手が差し伸べられています。苦しみや悩みの中で思わずうつむいてしまう私たちに「起きて立ち上がりなさい」とイエスは言われるのです。
お祈りいたします。