2025-05-25 主日礼拝説教
「神に従いなさい」
ヤコブ4:1-7
木村一充牧師
新約聖書の後ろのほうに位置するヤコブの手紙からユダの手紙までの七つの手紙(書簡)は、使徒パウロの手紙にあとに続くイエスの弟子たちの名前を借りて書かれた手紙です。手紙の読者は特定の教会や個人ではなく、エルサレムから各地に散らばって信仰を守っていた離散の信徒たちでありました。これらヤコブの手紙からユダの手紙までの七つの手紙を、公同書簡またはカトリック書簡と呼ぶことがあります。それは、これらの手紙が信徒一般に普遍的に当てはまる内容が書き記された手紙であると考えられたためです。ヤコブという名前ですが、この手紙の1章1節に「神と主イエス・キリストの僕であるヤコブが、離散している十二部族の人たちに挨拶いたします」とあります。ここで、イエス・キリストの僕と名乗るヤコブとは、12弟子の一人である元漁師のヤコブではなく、主イエスの弟でイエスの十字架と復活の出来事の後成立したエルサレム教会で、柱とみなされていた人物ではないかと見られています。この手紙の筆者は、主イエスの弟ヤコブの名前を借りて、エルサレムから各地に散らばって信仰生活を守っているキリスト者全般に向けて、この手紙を書きました。手紙の内容を見てみると、キリスト者の日常生活の中で起こる試練や苦難への対処の仕方、人を分け隔てしないこと、舌を制御すること、愛の行為の実践の勧めなど、広くキリスト者一般に向けて語られるヤコブの説教が書き記されています。ヤコブ書は、きわめて実践的な勧告で満ちた手紙であると言ってよいでしょう。つまり、キリスト者とこの世との具体的な関わりかたを、ヤコブはこの手紙で扱っているのです。
以上を前置きとして、さっそく本日の箇所に入ってゆきます。1節を読みます。「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。」なぜ、人と人との間で戦いや争いが起きるのか。それは、私たち自身の心の中にある欲望が原因だとヤコブは言います。考えてみれば、争いや戦争は自分が正しいことを示すために、ほかの手段を選ばず、力をもって相手を打ち負かそうとする行為です。話せばわかるではない。問答無用の世界です。しかし、それは人ごとではありません。私たち自身にも起こることです。プラトンという哲学者は次のように言っています。「戦争と革命と争いの唯一の原因はからだであり、その欲望にほかならない」ただ、そうは言っても欲望を持たない人間など、どこにもいない。誰もが欲望を持っています。だとすれば、大切なことはその欲望をいかに制御するかということになります。週報の巻頭言にもお書きしましたが、ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)という国際組織(世界遺産の選定などの働きをしています)が持つ憲章(ユネスコ憲章)の前文に「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和の砦を築かなければならない」という有名な言葉があります。私たちの心の中に、戦争を引き起こす感情がある。怒りや憎しみ、敵意や闘争心といった感情が生まれる。そのような感情を抑え、それが爆発しないようにコントロールする。そのためには人間の側の努力だけではなく、神の意志を知ることが必要だとヤコブは説きます。それを知る手段が祈りだとヤコブはいうのです。
では、祈りとは何でしょうか。1647年に英国のイングランドとスコットランドの教会の教師、神学者たちが集められ「ウェストミンスター小教理問答書」が作られました。キリスト教の教理についての質問と答えが、簡潔に分かりやすくまとめた教理問答書(Q&A)です。この中に「祈りとは何ですか」という問いが収められています。答えは次の通りです。「祈りとは、神の御心(みこころ)にかなうことを求めて、イエス・キリストの名によって、われわれの願い求めを神にささげることである」
ここでのキーワードは「神の御心(みこころ)にかなうことを求めて」という言葉です。祈りを通して、私たちは神のご意志をうかがう。神の御心を求めるのです。祈らなければ、私たちは傲慢になります。自分の力に頼り、この世の流れに身を任せて生きようとする。神のために生きようとせず、自分のために生きる。そして、自分を高くし、自分に栄光を帰せようとする。しかし、祈りの精神はそうではありません。ベクトルが自分ではなく神に向かっているのです。ローマの信徒への手紙8章26節以下に有名な次の言葉があります。「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」ここで「万事が益となる」と訳されている「益となる」もとの言葉は「カロス」です。「良い」という意味を持つ言葉です。利益が生じて得をするという意味ではありません。万事が神の目からみて「これで良し」と言われる状態になるということです。私たちは、自分にとって利益を求めて祈るのではありません。そうではなく、神の御心(みこころ)を求めて祈るのです。祈ると同時に、それが叶うよう行動する。そうして、祈りと行動の2つを神の前にささげることで、神さまから「これが、あなたには良いことだ」という答えをいただく。今なお、世界の各地で争いや戦争が続いています。このような戦争を引き起こしている国家の指導者が、果たして神の前に祈っているのか、きわめて疑わしいと言わざるを得ません。なぜなら、人は互いに愛し合い、仕え合うべきであると説くのが聖書だからです。「あなたの敵を愛しなさい」というのが主イエスのメッセージなのです。先週の月曜日(5月19日)、市川八幡教会で東ブロックの教役者会が行われました。11名の牧師が集まり、お互いの教会の状況を分かち合いました。その牧師会の後で、市川八幡、市川大野の教会牧師と私の3人で、今年の8月10日、(多くの教会で平和祈念礼拝が行われる第2週の日曜日です)午後に、栗ヶ沢教会で4教会合同の「平和祈念祈祷会」を開催することを打合せました。すると、少し遅い時間(午後3時とか4時)であればOKということで、2つの教会が都合をつけてきてくれると会が都合をつけてきてくれると申し出てくれました。嬉しかったです。先日のロシアとウクライナの和平交渉はどうなったのか。アメリカは仲介役を果たせるのか。人間の力では解決しそうにありません。神の力が必要です。そのために心を合わせて祈る、そのような祈祷会が開催できることを私は嬉しく思っています。その意味でも、間違った動機で、自己中心な祈りをしないように気を付けたいのであります。
続く4節でヤコブは「世の友になりたいと願う人はだれでも、神の敵になるのです。」と述べています。ここで、ヤコブはこの世を全面的に否定しようとしているのではありません。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛され」(ヨハネ3:16)ているのです。しかし、その世(コスモス)が神から離れてしまっている。そのような「この世」にどっぷりとつかって、神から離れてはいけないと、ヤコブは警告するのです。同じことを、福音書の中でイエスご自身が語っておられます。マタイ福音書6章です。「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。」私たちはどうでしょうか。もしも、この世の事柄に身を捧げ、そこに浸り、支配されるならば、この世が私たちの主人になります。しかし、この世の事柄を過ぎ去るもの、一時的なものとみなし、むしろ永遠のものを見つめてこれに備えるならば、この世は私たちのしもべになるでしょう。この世を用いるか、この世に用いられるか。この世が主人となるか、それとも神を主人とするか。私事で恐縮ですが、私も以前の会社で10年以上営業の仕事を担当しました。チームの中で一番の成績を上げて、褒められたことが何度もあります。しかし、私はその会社に身をささげようとは思いませんでした。上司から不思議がられたものです。なぜ、もっと上を目指さないのかと。理由はひとつです。会社のためよりも、神さまのために生きたかったからです。もちろん、職位があがっても神さまに仕えることは可能です。しかし、会社で幹部の役職に就きながら、一方で日曜日に教会での説教奉仕をすることは難しくなるでしょう。多くの人に祈られ、多くの献金支援を頂いて神学校で学ぶことを許された者が、神さまのために、自分の時間やタラントを用いずに、自分のために用いるということが、私にはできませんでした。その思いは今も変わりませんし、それは間違っていなかったと確信しています。神さまは、主を頼りとし、主にすべてを任せて従う者を養ってくださいます。悪いようにはなさいません。
そして最後です。ヤコブは本日の6節で、キリストに従う者は謙遜であるべきだと説きます。謙遜の反対は高慢です。なぜ高慢は神の敵と言われるのでしょうか。それは、人が高慢になると、自分の中に足りないものがあることが分からなくなるからです。決して完璧な人間ではないのに、自らの欠けに気が付かない。神の前に尊大になってしまう。だから、神の敵と言われるのです。さらに、高慢な人は何かに頼ろうとせず、自分の力だけを頼って生きようとします。神の力に頼る者を弱い人間であるかのように見下すのです。しかし、聖書が説く謙遜は、決して人を弱い者にはしません。むしろ、さまざまな試練や苦難を乗り越える強さが、神を信じる者に与えられるのです。ある説教者はこう言います。「確かにサタンは、キリスト者と取っ組み合いの格闘をすることができる。しかし、サタンはキリスト者を投げ飛ばすことはできない」預言者イザヤが言うように、「主に望みをおく人は新たな力を得/ 鷲のように翼を張って上る。/ 走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」キリスト者は、簡単には倒れません。たとえよろめくことがあっても、起き上がりこぼしのように、再び起き上がることができるのです。
自分には欠けたところがあり、自分は弱い存在であることを知る人が、人生の苦難や試練に対して忍耐することができるのです。自分はそれほど健康ではないことを認め、無理をせず、自己を過信しない人のほうが、かえって長生きをするものだと言われます。信仰者もそれと同じではないでしょうか。悲しみや嘆きを知っている人が、喜びの深さを味わうことができます。自分の罪の認識という大きな悲しみ、痛みを知るがゆえに、キリスト者は罪が赦されることを人一倍喜ぶことができるのです。謙遜な者には恵みが与えられるとは本当のことです。今日という一日を、いつもと同じように過ごすことができることが、どれほどの恵みでしょうか。日々、謙遜と感謝のうちに歩みつつ、神に従って歩むことの幸いを覚えたいと思うのであります。
お祈りいたします。