栗ヶ沢バプテスト教会

2025-06-01 主日礼拝説教

カインとアベル

創世記4:1-12

木村一充牧師

 

 本日の創世記4章では、エデンの園で起こった人類の堕罪とそこからの追放という出来事からさらに時間が流れ、アダムとエバという夫婦の関係に加えて親子、兄弟の関係が新たに描かれることになります。アダムとエバに男の子が生まれます。その名はカインと言いました。ヘブライ語で「わたしは得た」という意味を持つ「カーニーン」に由来する名前です。続いてエバはアベルを生みました。「空虚」あるいは「水蒸気」を意味する「へベル」から来た名前です。カイン誕生の時に見せたエバの喜びは、二人目のアベルの誕生の時にはありません。人間の命のはかなさを示す「アベル」とは、私たち自身のことなのかもしれません。二人は成長し、やがてカインは土を耕す者、アベルは羊を飼う者になりました。農業に加えて牧畜業が人類の仕事に加えられたということでしょう。3節には「時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物を持ってきた」とあります。収穫感謝のしるしとして、大地の実りを主にささげようとしたのです。一方、弟のアベルは羊の群れの中から肥えた初子を持ってきました。どちらも、労働を通して神さまから与えられた恵みへの感謝であります。神の恵みに感謝し、献げ物をささげることによってその思いを表したのです。ところが、4節以下をお読みください。「主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。」というのです。なぜでしょうか?

 多くの聖書学者がこの4節の理由付けに苦心してきました。たとえば、新改訳聖書では44節は次のように訳されています。「また、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た」つまり、アベルは最良の肥えたよい子羊を、誰にも頼らず自分の手で選び出して、神の前に出たと訳します。要するに、アベルはよき献げ物をささげるために心と体を用いたというわけです。それに比べて、カインはただ事務的に地の産物を選び、しかも誰かに持たせて神の前にやってきたように、新改訳聖書では読めます。つまり、カインのささげ方に問題があった、と取るわけです。新約聖書のヘブライ人の手紙も、これとほぼ同じ見方をします。へブル書11章によると「信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ」た、とあります。アベルのささげのほうが信仰的だったというのです。

 もう一つの説明は、そもそもユダヤでは、動物の犠牲のほうが農産物の献げ物よりも優れているという考え方があるというものです。神が受け入れられる献げ物とは罪を贖うべきものであり、そのためには動物の血が流される必要があった。つまり、神が喜ばれるいけにえは、罪を贖うことができる血の犠牲だという考えがあったのです。農耕民族は、四季の移り変わりや自然の及ぼす力に深く関わる生活をすることから、自然現象の中に神の恵みを見て絶対的なものに直面しなくなる傾向があるといいます。しかし、遊牧民族であったユダヤの民は、農耕民族であったカナン人と違い、動物の献げ物が優れていると考えていたというのです。この説によると、アベルの献げ物がカインのそれより優れていたということになります。

 以上の二つの解釈に加えて3つ目の考え方があります。なぜ主なる神がアベルの献げ物を喜ばれたのか、その理由は良くわからないというものです。冗談を言っているのではありません。考えてみてください。カインもアベルも罪を犯して楽園を追放されたアダムとエバから生まれているのです。しかも、どちらも同じように神の前に献げ物を持ってきて神を礼拝している。どちらが信仰的に優れているという話ではない。そうではなく、この物語は、人生の歩みにおいて、人はしばしば理由のわからない、説明のできない苦しみや不条理な災いに襲われることがあるということを言おうとしていると取るのです。私はこの解釈に惹かれます。神から離れたこの世界は、荒れ野であり、災難や理不尽なことが起きるのは世の常ではないでしょうか。同じように礼拝をささげていても、ほかの人は問題がないのに、自分だけは病気になる。自分だけ思いがけぬ苦難や災いに出くわす。神さま、なぜですかと叫びたくなることがあるのです。カインにとって、神がアベルの捧げものを喜ばれた出来事がそうでした。実は、神さまはしばしばそういうことをされます。あのエサウとヤコブの双子の兄弟のうち、弟のヤコブを選ばれたのもそうです。ヤコブが人間的に立派だったからではありません。神の自由な意志によるものです。神の御心(みこころ)はしばしば私たちには不可解なのです。

 しかし、問題はこの後のカインの取った行動です。カインは激しく怒って顔を伏せたとあります。自分の献げ物を神が受け入れてくださらない。それは、確かに残念で辛いことです。けれども、今回自分の献げ物を神さまが喜んでくださらないのならば、この次、神が喜ばれるようにすればよいのです。それはカインと神さまとの問題です。ところが、カインはその怒りの矛先をアベルに向けました。他の人との比較を始めるのは、自己主張のもう一つの表現です。カインはアベルとその献げ物だけが受け入れられたことに、激しい憤りを示します。自分も同じように神への感謝をささげたではないか、自分も同じく神の前で礼拝したではないか。それなのに、なぜあなたは弟アベルだけを顧みられ、弟の献げ物だけを喜ばれるのか。これを見て、主なる神はカインに言われます。6節です。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もし、お前が正しいなら顔を見上げられるはずではないか。」ここで「正しい」とは、神に対してあるべきふさわしい関係を保っているということです。もし、カインが神さまに対して少しも後ろめたい感情を持ってなかったとすれば、カインは顔を伏せる必要はなかったはずです。根本的な原因は、カインと神さまとの関係性に会ったのかもしれません。かつて、アダムとエバはエデンの園で、主なる神が園の中を歩く音を聞いて、園の木の陰に隠れました。神の顔をまともに見ることができなかったからです。同じようにカインもここで顔を伏せています。激情のあまり、神さまをまともに見ることができなかったのです。もしかしたら、それまでのカインは「自分のことを祝福してくれるはずの神」を見ていたのかもしれません。けれども、それは神を見ていたのではなく、自分を見ていたのです。

 宗教改革者のマルチン・ルターは次のような言葉を残しています。「正しい信仰のないところでは、人の心は、神を斜めの目で見る」と。「斜めの目で見る」とは面白い表現ですが、日本語にもこれと似た表現があります「斜に構える」ということばです。相手の前にまっすぐに立っていない。目の向かう先が、神その方ではない。そうではなく他のものを見ている。何を見ているのでしょうか。そうです、自分を見ているのです。そうして、神を正しく見ることができなくなったカインは、激情の命ずるままに弟を野原に連れ出し、弟を殺してしまいました。怒りと嫉妬心のゆえに、弟のことを共に助け合って生きる人生の伴走者としてではなく、憎しみの対象としか見られなくなっていたのです。神との関係の破れが人との関係の破れを引き起こしたのです。

 創世記4章が描く内容は、現代を生きる私たちにも他人事ではありません。礼拝の中で起きた小さな行き違い、小さな期待外れをきっかけとして、カインは神から目を背け、怒りと嫉妬心のゆえに、たった一人の弟を殺害してしまいます。カインの失ったものは弟だけではありません。このあと、「お前は呪われる。土を耕しても、土はもはやお前のために作物を生み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる」と続きます。大地の恵みさえも奪われ、カインはエデンの東ノドに住みます。「ノド」とは「さすらい」という意味です。創世記は、このように人間が神から離れたために、夫婦の心が離れ離れになり、兄弟が離れ合い、さらに実りの大地からも引き離されてしまうという人間の悲惨な歴史を描きます。それでも、そのような人間の住む所は「エデンの東」だと聖書はいいます。すぐ隣には神の楽園であるエデンの園がある。しかし、そこに住むことは許されない。また、そこから遠く離れることもできない。人間はエデンの園にあこがれ、そこに住むことを慕い求めながら、さすらい人として地上を歩むというのです。

 カインは、神からのこの裁きの言葉を聞いて「わたしがさすらい人となれば、出会う人誰もがわたしを殺そうとするでしょう」との絶望の言葉を語りました。しかし神は、この言葉を聞いて、カインの命を奪おうとする者からカインを守るための「しるし」を与えたと言われます。どれほど身勝手で、どれほど罪深い者であろうと、主なる神はカインの命を守ってくださるのです。このエデンの東がどれほど生きづらい地であろうとも、神さまは決してカインを見捨てることはなさいません。このカインとは、私たちのことではないでしょうか。

 アダムとエバは、この殺人事件がもとで一挙に二人の息子を失ってしまいます。しかし、神の救いの歴史はここで終わりません。夫婦にはもう一人の男の子「セツ」が生まれます。そして、このセツの息子エノシュの時代に、イスラエルの民の間に主の御名(みな)を呼ぶことが始まるのです。イスラエルの救いの歴史は、イエス・キリストの到来によって完成します。しかし、その救いはカインの犯した罪をご自身の死、十字架の贖いのわざを通して成し遂げられた救いであります。

 

お祈りいたします。