2025-06-08 ペンテコステ礼拝説教
「聖霊が降る日」
使徒言行録2:1-13
木村一充牧師
本日は、ペンテコステ礼拝をささげる日曜日です。ペンテコステとはギリシャ語で「50日目」を意味する言葉(序数)で、イエス・キリストの復活の日から当日を含めて50番目の日が、今日に当たります。お読み頂いた聖書では冒頭に「五旬祭の日が来て、」と記されていますが、漢字の「旬」とは「十日」を意味する言葉です。五旬と書いて、50日という意味になるわけです。五旬祭は、もともとイスラエルの三大祭りの一つである「七週の祭り」を受け継いだ祭りです。七週の祭りとは、小麦の刈入れを記念する祭りで、この日にユダヤの民は神から受けた恵みに感謝し、小麦の初穂を感謝のささげものとして主にささげました。それと同じように、イエス・キリストの十字架と復活により、教会の働きにも豊かな実りが与えられました。それが、聖霊が注がれるという出来事、聖霊降臨の出来事だったのです。本日の箇所の後ろの箇所2章41節で、「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼(バプテスマ)を受け、その日に三千人ほど仲間が加わった」とあります。ペンテコステの日に、そのような霊的な実りが与えられたと本日の聖書は証言するのです。
ところで、この聖霊ですが、それは決して弟子たちにとって、予想外な仕方で、不意を突かれるような恰好で弟子たちの上に降ったわけではありませんでした。実は、このことは生前のイエス、さらには復活されたイエスが、すでに前もって予告しておられたことだったのです。たとえば、ヨハネ福音書の16章に、次の御言葉(みことば)があります。「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。」ここで「弁護者」と訳されているもとのギリシャ語「パラクレートス」は、聖霊のことです。助け主、慰め主、励まし手、という意味です。「わたしが地上を去ったら、代わりに聖霊を送る」と主イエスは、すでに言われているのです。さらに、本日の箇所の直前の使徒言行録の1章4節以下を読むと、次のようにあります。「そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。『エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。』」(使徒言行録1:4〜5)以上のような記述を見ても分かるように、聖書はイエスが十字架の死によって地上から去ったとしても、そのイエスの代理としての聖霊が、イエスの弟子たちに注がれることを、予告しているのです。だから、私たちは、イエスの死を嘆き悲しまなくてもいい。なぜ、ペンテコステの礼拝を私たちがお祝いするのか。それは、三位一体の神のひとつである聖霊が、弟子たちの上に降臨してくださったからです。聖霊なる神さまが来てくださったのです。
キリスト教の三大お祭りは、クリスマス、イースター、そして本日のペンテコステです。クリスマスは神の御子(みこ)であるキリストの誕生をお祝いします。イースターは、十字架につけられ死んで葬られたイエスを、父なる神が死人の中から復活させられた出来事をお祝いします。そして、本日のペンテコステは、そのイエスが天に上げられたあと、弟子たちを慰め、励ます存在として聖霊が来てくださったことをお祝いするのです。つまり、教会の三大祭り(クリスマス、イースター、ペンテコステ)は、三位一体の神の御業(みわざ)をおぼえ、父・子・聖霊という3つのあり様で、姿やかたちを変えて私たちと共にいてくださる神さまに感謝し、そのことを喜ぶ祝祭、お祭りであります。
では、その聖霊がペンテコステの日にどのようにして弟子たちのところに降ったかを読んでみましょう。
本日聖書の2章1節以下に、こう書かれています。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。」聖霊とは、激しい風のようなものだと聖書は書きます。ここを読むと、旧約聖書の列王記上19章に出て来る預言者エリヤの物語が、思い起こされます。エリヤが王妃イゼベルに追われ、その命を奪われそうになったとき、エリヤは神の山であるホレブ(シナイ山)を目指して、40日40夜歩き続けました。疲れ果て、へとへとになったエリヤは、その夜、ほら穴に入りそこで一夜を過ごします。その時、主の言葉がエリヤに臨みました。「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」そのとき、主がエリヤの前を通り過ぎて行かれました。すると、「非常に激しい風」が起こり、山を裂き、岩をも砕いたといいます。風のあとに地震があり、地震のあとに火が起こったといわれます。ここで「激しい風」と「火」とは、神のご臨在を示すしるしです。ただ、地震や火の中に神はおられなかったけれども、そのあと「静かにささやく声」が聞こえてきました。その御言葉(みことば)の中に神がおられたと、聖書は説くのです。ペンテコステの日に起きたことも、これと似ています。激しい風が吹き、そのあと炎のような舌が、分かれ分かれに現れて、一人一人の上に留まったという。そこには、確かな神のご臨在、神の働きがあったということです。風は目に見えません。たとえば、私たちが飛行機に乗り、窓から外を見るとき、飛行機の外で、どれほど強い風が吹いているかは分かりません。しかし、その飛行機が乱気流の中に入ると、機体が激しく揺れ、そこがどれほど危険であるか、リアルに分かります。目に見えなくても、風の力が働いているのです。聖霊も同じです。聖霊も目には見えません。しかし、聖霊が働いていることが分かるのです。今、こうしてわたしたちが礼拝をささげていること、共に賛美していること、神の言葉を聞いていること、これらすべては、聖霊の導きによるものです。なぜなら、私たちは聖霊によらなければ、だれ一人「イエスは主である」と告白することができないからです。(Tコリント12:3)現実の話として、「自分は、聖霊のことがよく分からない」と言うキリスト者がいるといいます。しかし、そのような人に申し上げたいのです。聖霊とは、神さまの愛と同じです。あなたは、イエス様に愛されています。たとえ、あなたがよく分からなくても、あなたは聖霊によって主イエスを信じる者とされ、神の大きな守りの中、母鳥の翼の中にあるヒナのように、神さまから愛されています。だから、安心してくださいと。
さて、激しい風が吹いて来るような音が響いたあとに続いて起きた現象は何だったでしょうか。3節を読みます。「そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」とあります。舌とは英語でtongue(タング)といいます。牛タンのタンですね。ところで、この英単語は体の一器官としての「舌(べろ)」の意味に加えて、もう一つの意味、すなわち「言葉」(=language)と意味を持ちます。(「native tongue」で「母国語」という意味になりますね)ペンテコステの日に起こったもう一つの出来事、それは弟子たちに言葉が与えられたということです。五旬祭の祭りに合わせて、エルサレムにやってきた各地のユダヤ人たちは、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて驚いたとあります。しかし、このことは、弟子たちが天からの舌を与えられたことで、いきなりバイリンガル、あるいはトリリンガルになったということではありません。そうではなくて、聖霊降臨という出来事を通して、弟子たちの話す言葉が、各地のユダヤ人に、つまり世界中の人に「伝わる言葉」として聞かれたということです。伝わる言葉とは、お互いの心が通じ合うということです。コミュニケーションが成り立つということです。私は犬を飼った経験がないのでよくわかりませんが、人間と犬との間にもコミュニケーションが成り立つということをよく耳にします。ある人が、犬を連れて山道を散歩していた。すると、そこにクマが現れて、その人に襲いかかった。そのピンチの局面で、一緒にいた犬がクマに向かって激しく吠え、ご主人をクマから守ろうとした。驚いたクマは、激しい犬の抵抗におびえてその場を立ち去った。そのような話が、実際にあったということを聞いたことがあります。ご主人は、その夜、その犬を抱きかかえ、一緒に布団で寝たというのです。見事に、コミュニケーションが成立しているではありませんか。人間と犬との間でさえ、そのような麗しい関係が成立するのに、同じ日本語を話し合う者同士が「口もききたくない」という関係に陥るのは、いったいどういうわけでしょうか。それは、私たちのエゴイズムのゆえです。私たちの「我」が強すぎるため、相手の言葉をシャットアウトしてしまうのです。
考えてみれば、人間同士の言葉が通じなくなる、言葉が乱されるということが人類の歴史で初めて起きたのは、あのバベルの塔の建設の場面からでした。創世記11章が描くバベルの塔は、人間が「天まで届く塔のある町を建て、有名になろう」と考えたことがきっかけです。天とは神さまが住まわれる場所です。その天にまで届く塔を建てるとは、人間が神のようになるということです。そのことを願って、互いに張り合った結果、人々の間で言葉が通じなくなったと聖書はいいます。それは、他人事ではありません。私たちにもあることです。では、心が通じあうために何が必要でしょうか。コミュニケーションが成り立つには何が必要でしょうか。それは、相手の立場に立ち、相手を受け入れることです。ずばり言えば、愛が必要なのです。バベルの塔の建設以来ずっと続いた言葉の乱れ、人間関係の破れは、本日のペンテコステの出来事によって、初めて修復され、世界中の人々が弟子たちの語る救いの言葉を分かる言葉、和解の言葉として聞くことができた。その前提として、イエス・キリストの十字架と復活という神がおこされた神と人との和解の出来事があったと、聖書は説くのです。
先ほどの聖歌隊の賛美、スピリットソングでも「聖霊と愛とが、あなたを包むとき」という歌詞がありました。神さまのことが分かるのも、これと同じです。かたことの外国語でも、思いやりと愛があれば心は通じ合います。現代の教会に求められているもの、それはすべての人を包み込むことができる聖霊と愛に満ちた言葉です。ペンテコステの出来事を通して、このような言葉が回復され、無学なただの人であった弟子たちが、エルサレム、ユダヤ、サマリヤ、そして地の果てまで福音を語り伝える働きが始まりました。世界伝道の始まりです。私たちの教会もそのような弟子たちに倣わねばなりません。現代の教会は、2000年経った今も使徒言行録と同じ働きを続けているのです。
お祈りいたします。