2025-06-15 主日礼拝説教
「地の塩、世の光」
マタイ5:13-16
木村一充牧師
本日の聖書箇所であるマタイによる福音書5章は、主イエスがガリラヤの山に登り、近寄ってきた弟子たちに神の言葉を教え始められたいわゆる「山上の説教」が書き記されているところです。イエスはここで、「幸いなるかな!」(マカリオス;ギ)という形容詞を先頭に置いて、次のような人々は神さまの目から見て、まことに幸いな人々なのですよと言われます。そして、8つの幸いな人々のことを挙げられる。心の貧しい人、悲しむ人、柔和な人、義に飢えかわく人、憐み深い人、心の清い人、平和を実現する人、義のために迫害される人です。これら8つのうち、いくつかは普通に考えればとても幸いとは言えない人が含まれています。すなわち、貧しい人、悲しむ人、義のために迫害される人、つまり神からみて義なることをやり遂げようとして迫害される人が幸いであるというのです。その言葉は不可解です。しかし、信仰に生きる者は、このような逆転がよく分かるのではないでしょうか。私は26歳の時に父を交通事故で無くしました。その時はまだ独身でして、結婚相手が見つかったら真っ先に父に報告して喜んでもらおうと思っていました。しかし、それが叶わなくなった。けれども、この事で、私は親を亡くした人の悲しみがよく分かるようになりました。「悲しむ人々は、幸いである」というイエスの言葉は、「他人の苦しみや悲しみに対して、深い共感と思いやりを持てる人は幸いである」という意味でもあります。それは「同情」と言うよりも、むしろ「共感」と言ったほうがよいでしょう。このような悲しみを経験した者が、真実の慰め、人の思いやりに対する感謝を感じ取ることができるのであります。
この8つの至福の言葉に続けて、その次に主イエスが語られたことが、本日の説教題に取り上げた教えです。「地の塩、世の光」という小見出しが付いている本日の箇所は、山上の説教の中でも最もよく知られる教えの一つです。ここでイエスは、キリスト者のこの世における役割、果たすべき責任についてお語りになります。まず、塩について考えてみましょう。13節を読みます。「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。」とあります。古代社会では、塩はとても貴重なものでした。ローマ時代のことわざに「太陽と塩ほど役に立つ者はない」という言葉がありました。働く人への報酬、給料のことを英語で「サラリー」と言いますが、それはsalt(英) からきています。給料を塩で支払ったわけです。
この塩にはどのような働き、役割があるか。大きく3つ挙げられます。その第一は、命と体の健康を保つために塩分が欠かせないということです。塩は、血液や消化液、リンパ液、汗や涙などいろいろな体液に含まれていて、体の状態を一定に保つ、恒常性(ホメオスタシス)の維持に不可欠な物質になっています。血液を舐めるとしょっぱい味がしますね。そのように、塩で体液の浸透圧を一定に保つことで、健康が保たれるのです。わが国でも戦国時代に海のない甲斐(山梨)の武田信玄の軍に、越後(新潟)の上杉謙信が塩を送ったというエピソードがありますが、それほど塩は大事でした。そのように、あなたがたも社会において無くてはならない存在だとイエスは言われるのです。
塩の第二の役割、それは防腐剤としての働きです。魚や肉、野菜を塩漬けにして保存すると、通常よりもずっと長持ちすることが知られています。その理由は、食材に塩をかけてまぜると浸透圧の働きで細胞から水分が出てくる。すると、水分が少なくなった細胞では腐敗菌が死滅し、食材を腐らせることなく長く保存することができるのです。微生物が活動するためには水が必要ですが、塩はその水分を細胞から取り除く働きがあり、結果的に食べものを腐らせることなく、長持ちさせることができるのです。漬物や塩鮭、塩サバ、さらにはハムやソーセージなどに塩が添加されているのは、そのためです。主イエスは、キリスト者は地の塩であると言われます。その前提には、この世は腐敗しているという認識があります。現代社会の道徳観、倫理観のことを振り返ってみてください。先日も宮内庁での発表ですが、天皇家のお金を管理する宮内庁職員が、そこからお金を盗み、私的に流用したことが明らかになりました。プロ野球選手や民放テレビ局のアナウンサーがオンラインカジノにお金を賭け、賭博の疑いで謹慎を命じられています。お金のために、人としてのモラルやこの世のルールを無視して犯罪に手を染めることが起こっているのです。人間は弱く、過ちを犯しやすいものです。だからこそなおさら、キリスト者はこの世にあって悪の誘いを断ち切り、どのような社会の中でも悪を防ぐ働きをしなければなりません。それでは、この世が堕落しやすいというのなら、そこから離れ、一切のこの世との関りのないかたちで生きれば良いではないかと思う人がいるかもしれません。しかし、それは聖書が説くところではありません。塩は肉や魚の中に摺りこまれなくては意味がないのです。イエスというお方もまた、徴税人や遊女たち、罪人と呼ばれる人々の中にその身を置いて、彼らと寝食を共にされました。キリスト者はこの世と切り離されたところで生きるのではなく、この世のただ中で、人々と良き関りを持つことが求められているのです。
塩の第三の役割、それは言わずと知れた働き、すなわち味付け、調味料としての働きです。塩気のない食べ物は文字通り「味気ない」ものになります。私はうどん県で知られる香川県の出身ですが、ご存じのように、「さぬきうどん」の命は「コシ」と「だし」にあります。その両方に、塩が深く関わっています。うどんそのものに塩が多く入っているため、「だし」は極めて薄味です。だからおいしいのです。学生時代から東京で暮らし始めましたが、東京のうどん屋さんに入り、その真っ黒なおつゆを見ていっぺんで食欲を無くしたことを思い出します。塩味が食物にとって大切な「要」であるように、聖書の教えが人生に味を付けるのです。使徒パウロは、コロサイの信徒への手紙4章6節で「いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。」と書いています。私たちも、不平や不満、陰口やうわさ話、他人の悪口、このような話を意識して避け、その代わりに隠し味として御言葉(みことば)が生きている言葉を語るようにしましょう。
以上、3つの役割を果たすために、塩が塩味を失うことがないようにしなさいと、イエスは言われます。イエスの時代のパレスチナで、塩は海の水を蒸発させて取るのではなく、多くの場合岩塩、つまり陸地から取りました。岩塩には不純物が多く含まれていて、放っておくと塩気を失うことがありました。そうなると、その塩は道路に捨てられ、人々に踏みつけられるだけとなりました。もしも、キリスト者がその使命を果たさないならそれと同じだというのです。塩がその塩味を失ってしまう、それはあってはならないことです。ウイリアム・バークレーという英国の神学者は、この箇所の注解書で興味深い事例を紹介しています。昔の教会のことですが、一度信仰を捨てた人が自らの過ちに気が付いて信仰に立ち返った時、会堂の入口のところで身を横たえて、会堂に入ろうとする他の人々に「どうぞ、わたしを踏んで下さい」と頼んだというのです。かつて、主イエスから「あなたは地の塩だ」と呼ばれたのに、その味を失ってしまった。わたしは、主が言われた通りこうして踏みつけられるより他ない者なのですというわけです。それほど真剣に主の言葉を受け止めた人々がいたことを、私たちは心に刻みたいのです。
次に、本日の箇所の後半ですが、主イエスは「あなたがたは世の光である。」と言われます。光の果たす役割は誰でも分かります。つまり、光は闇を照らし、人々の目印となるということです。「山の上にある町は、隠れることができない。」というイエスの言葉は、パレスチナの町、集落の実態を説明しています。ユダヤの人々は、町が遠くからよく見えるようにわざと山の上に家を建てて、町づくりをしました。夜には住民たちがランプで灯りをつけます。すると、旅人たちはその町の灯りを見て、それを目印にして迷うことなく旅を続けることができたのです。キリスト者は、この世で同じ役割を果たします。すなわち、すべての人を照らすまことの光であるイエス・キリストを指し示す働きです。その前提には、塩の場合と似ていますが、この世は闇であるという認識があります。希望を無くし、生きる目標を失った人生はまさに暗闇です。愛を無くし、争いが起き、戦争による破壊が続く世界は暗闇です。聖書は、そのような暗闇の世界の根底に、神から離れた人間の罪があることを見つめています。その罪のゆえに、この世がまことの光を見失っているのです。
そのような神から離れた世界にあって、キリスト者は人々を照らす光、ともし火となります。夜の羽田空港の滑走路に整然と並ぶあのライトを思い起こしてください。あるいは、夜の横浜の港を想像してほしいのですが、船が無事に港にたどり着き、桟橋にぴったりと停まるためにも、ライトが必要です。光は暗闇のなかで人々に正しい道を示します。そのように、キリスト者も闇を歩く人々のために道を指し示すのです。先ほどの塩が「食べ物を腐らせない」という消極的な役割を果たすとすれば、光のほうは「人々に正しい道を指し示す」という積極的な役割を果たすのです。
本日の聖書箇所の最後のところでイエスは言われます。「人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」と。では、ここでいう「立派な行い」とは何でしょうか。キリスト者は、もれなくすべて人格者でなければならないのでしょうか。そうではありません。むしろ、何を基準として生きているかが大切です。旧約聖書に士師記という書物があります。イスラエルにサウルやダビデのような王がいなかった時代のことを描いています。この士師記の最後に次の言葉が出てきます。「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた。」士師記はこの言葉でとじられる。それは、士師に時代にはめいめいが自分の考えで正しいと思うことを勝手にやっていた、ということです。それゆえ、ユダヤの社会は混乱していました。立派な行いとは、めいめいが自分にとってよいと思うことではありません。神の目によいとされることです。キリスト者は、自分の能力や判断によって行う行動によって輝くのではりません。そうではなく、命の言葉であるミ御言葉(みことば)をかたく保つことでこの世にあってキリストを指し示すのです。キリスト者とは、人々の目を自分に向けようとするのではなく、神に向けようとするのです。地の塩、世の光という言葉は、私たちがいかにキリストの僕(しもべ)とされているかを測るモノサシであります。
お祈りいたします。