2025-06-22 神学校週間礼拝説教
「盲人の癒し」
ヨハネ9:1-12
木村一充牧師
本日お読み頂いたヨハネ福音書9章には、主イエスが一人の生まれつき目の見えない人を見かけられ、この人を癒された出来事が書き記されています。舞台は、たぶんエルサレムの神殿の近く、門の入口あたりだったと思われます。そこを通る途中で、この盲人に目を留められ、彼の目を開かれたのでした。少し前のヨハネ福音書5章で、主イエスはこの人と同じように38年間も病気で苦しみ、ベトザタの池のそばで横たわっていた病人を癒されています。主イエスは、いつもそのような人々に関心を持っておられました。ユダヤ人の祭の季節、巡礼客でにぎわうエルサレムの都を訪れつつも、主イエスのまなざしは、華やかな神殿の中、境内で祭りを祝う人ではなく、その神殿の庭に入ることさえ許されていなかった弱い人々、苦しんでいる人々に注がれていたのです。この目の見えなかった人は、物乞い(乞食)をしていました。そうやって生きてゆくより他なかったのです。彼は、恐らく前途に何の希望もなく、生きる意味も見いだせないままに、現在の苦しみをただ運命としてじっと忍耐していたのでしょう。
このような不幸な人が、なぜこの世に存在するのか。弟子たちは、そのような疑問を抱いて、率直に自分たちの教師であるイエスに尋ねています。2節です。「先生(ラビ)、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」この弟子たちの質問は、洋の東西を問わず、広く知られた思想によっています。すなわち、人の不幸の原因は、その人の犯した罪の結果であるという因果応報の思想です。今日の日本でも、新興宗教はさまざまな病気や苦しみを背負う人のところに来て、親の因果が子に報いたのだ。先祖への供養が足りぬと説いて、高価な品物を売りつけたり、入信を迫ったりします。ひと昔前には「霊感商法」と呼ばれるような言葉も聞かれました。人の弱みに付け込んで高価なものを買わせるやり方です。イエスの弟子たちも同じような面がありました。この人が生まれつき盲目なのは、本人が母の胎にいた時に罪を犯したためだというのです。或いは、本人の罪でないとすれば、その両親に罪があるに違いないと考えました。いずれにしても、この人の不幸の原因はこの人を取り巻く人の罪のせいだと考えたのです。それには理由がありました。実は、旧約聖書の中に、先祖が犯した罪が、その子に報いとなって返ってくるという考え方があるのです。出エジプト記20章に「わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問う」と書かれています。誰かが罪を犯すと、その罪は本人だけでは済まされない。子々孫々まで及ぶと言うのです。たまったものではありません。
私も、牧師という仕事を担う中で、病気の人のお見舞いをすることがあります。すると、似たようなご質問を受けることがあるのです。「先生、私がこのような病気になってしまったのは、何か罰が当たったためでしょうか」そのとき、私は答えるのです「いいえ、罰が当たったのではありません。老化のせいです」それは、自然現象であって罪の問題とは関係ないということです。では、主イエスはこの弟子たちの問いにどうお答えになったでしょうか。3節を読みください。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」
この主イエスの言葉は、新約聖書の中でも最も慰めと励ましに満ちた素晴らしい言葉の一つです。この言葉によって立ち上がった人が、教会の歴史の中でどれほど多くいたことであろうかと思います。なぜ素晴らしいのでしょうか。理由は二つあります。一つ目は、主イエスはこの人の苦しみを他人事とせず、その苦しみの中に飛び込んで、どうやったらこの人が苦しみから解放されるか、それを一番のこととして考えているからです。ファリサイ派の人々はそうではありません。その人の苦しみはそっちのけで、その人の罪を問題にするのです。主イエスは、その人を客観的に対象として眺め、その罪責を問うことはしません。まず苦しみに目を留め、どうすればそこから解放してあげられるかを考えるのです。以前、神戸にいたころ聞いた一人の若いお母さんの話を忘れることができません。そのお母さんは、娘さんが蒙古斑という症状をもって生まれたことを気に病んでおられました。そして、幼稚園に入る前に、ある皮膚科の病院を訪ねて、先生に良い治療法がないものかどうかを相談しました。ところが、その時の医師の対応に愕然としたというのです。その医師はこう言ったといいます。「ほう、珍しい症状ですね。ちょっと、写真にとらせてください」そう言ってお母さんに断りもなく、カメラを取り出して、パチパチとそのシャッターを切り始めたのです。お母さんは「やめてください」と言うなり、席をけってその病院の外に飛び出したというのです。私たちはどうでしょうか。人の苦しみを他人事のように眺め、客観的に分析しようとしてはいないでしょうか。しかし、主イエスはそうはなさらない。その人の苦しみに目を注ぎ、どうすればそこから逃れることができるかをその人と一緒に考え、自分に何ができるかをお考えになるのです。イエスは、決してファリサイ派にはなりません。二つ目です。この人の不幸の原因が、誰の犯した罪のゆえか、そうでないか。イエスは、この人を取り巻く人の過去に目を向けようとはなさいません。過ぎ去った過去を問題にして、今の不幸はあの時の罪、あの時の過ちにあったと、その原因を究明したところで一体何になるでしょうか。
仮に、親の罪が原因であることが明らかになったとしたら、この人の目が良くなるでしょうか。いいえ、良くなりません。むしろ、過ぎ去った過去にいつまでも引きずられ、この人は運命として不幸を背負い続けるのです。親はそんな我が子を、身を切られるような思いで見つめるしかありません。立つ瀬がなくなるのです。
そうではない!原因究明が大事なのではありません。肝心なことは、「なぜ」ではなく「何のために」です。その苦しみに特別な意味があるのです。何かの目的があるのです。主イエスはそれを「神の業が現れるためである」と言われます。この「業」はもとのギリシャ語では複数形で書かれています。神の「数々の御業」が現れるためと言われるのです。何と素晴らしい言葉、何と素晴らしい福音でしょうか。神さまは、この世に生を与えたすべての人をご自身の栄光をあらわす器として創造されました。仮に、障がいをもって生まれたとしても、それも神さまの目的があって、つまりその人でなくてはできないことがあってその目的を果たすために、その人は生まれてきた。英語で障がい者のことを Specially talented peopleと呼ぶことがあります。「特別にタレントを与えられた人」というのです。
先週の賛美歌を歌う会で、私はスウェーデンの歌手レーナ・マリアさんのことを、紹介させて頂きました。生まれつき両手がなく、足で服を着たり、車を運転したりする彼女の日常生活は、私たちから見たら実に不便です。しかし、彼女はそのコンサートの中で「I am happy!」という言葉を何度も口にしました。その底抜けに明るい精神、それを支える信仰によって「アメージング グレイス」を賛美するのです。彼女の賛美で、私たちまで元気になるのです。周りを見てみましょう。私たちの周りにも重い障がいを負った人や、年を重ねて足腰も弱り、誰かの介護を受けながら暮らしている方がおられます。いや、私たち自身がやがてそうなるのであり、今すでに多くを人に負って生きています。ある意味でみんな同じではないでしょうか。しかし、そのような私たちを神さまは創られ、ユニークな使命を帯びさせて、この世に生かしてくださっているのです。主イエスが、ヨハネ福音9章3節で、このお言葉を語られて以来、無意味で目的のない人生は、この世に何ひとつどこにも存在しなくなったのです。
この人は癒されます。イエスは、地面に唾を吐き、その唾で土をこねてその人の目にお塗りになったと書かれています。イエスの時代、すぐれた人物のつば(唾液)には人を癒す力があると信じられていました。そのように、盲人の目にドロ(土)を塗られたあと、イエスは言われます。7節です「シロアムの池に行って洗いなさい」私の郷里である香川県は、ため池の数が日本一多い県として知られています。実際、我が家の近くにも、片手に余るほどのため池があります。シロアムの池もそのような池だろうと思い、以前は読み飛ばしていました。しかし、2012年にイスラエルを旅行して、エルサレムを訪れた時、池を探すのにとても苦労しました。そもそも、エルサレムは丘の上に建てられた要塞のような町です。周囲を谷に囲まれ、崖の上の城壁に囲まれた町、それがエルサレムなのです。神殿の門から、このシロアムの池にたどり着くためには、城壁の右側にあるケデロンの谷を南に降り、2キロ近い崖路を下ってゆかねばなりません。目が見える私たちでさえ歩行が容易ではないその道を、この人はイエスが言われる通り下っていったのです。当然、誰かに頼んで手を引いてもらってこの池まで行ったことでしょう。この盲人は、大げさに言うなら「命がけで」イエスの言葉に従ったのです。その結果、主が言われた通りの癒しの業が起きたのです。主イエスは、「神の業が現れるため」にこの人が盲人とされたと言われます。しかし、その神の御業(みわざ)を見るためには、イエスの言葉に従うことが必要なのです。私たちの人生には、不条理な事、思いもかけない苦難や試練が襲いくることがあります。しかし、そのような時、絶望してうなだれるのではなく、そのことを通して、神が何をなさろうとしておられるのかを問いつつ、上を見上げて歩もうではありませんか。
本日の4節に「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。」という言葉があります。神の恵みは豊かに注がれています。しかし、それを感謝して受け止める時は無限にあるわけではないのです。同じヨハネ福音書の12章36節をお開きください(193ページです)。「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」とあります。この光とは、世の光であるイエス・キリスト御自身のことを指します。人生の本当の意味は、光に照らされた時に分かるのではないでしょうか。私は20歳のときに教会を訪ね、その年の9月にバプテスマを受けました。以来、日曜礼拝を信仰生活の中心に置いて歩んでまいりましたが、信仰を与えられて本当に良かったと思っています。神さまを知らずに生涯を歩んでいたら、恐らく今のようなシャローム(心の平安)はなかったことでしょう。信仰は、個人の努力や難行・苦行の末に、与えられる「悟り」のようなものではありません。人間の思いを超えて、ただ上から与えられるものです。シロアムの池とは「遣わされた者」という意味ですが、遣わされた者とは、神の子であるイエスその人のことです。私たちも、神の言葉を信じてこれに従い、主が行けとお命じになった場所に足を運ぶことで、イエスさまと出会うことができるのです。
お祈りいたします。