栗ヶ沢バプテスト教会

2025-06-29 主日礼拝説教

律法の役割

ガラテヤ書321-25

木村一充牧師

 

 つい最近のことですが、女性芸能人であり女優として知られる大竹しのぶさんが、ご自分の息子さんの結婚が決まったことをそのインスタグラムに写真と文章を添付して更新し、亡くなったご主人にその報告をしたというニュース記事を読みました。大竹しのぶさんは、今から40年前の1985年に結婚し、やがて男の子を出産します。二千(にち)()さんと命名されたその息子さんが、このたび結婚することになったというのです。そのことを彼女は心から喜び、結婚の2年後に死別した夫に、それを伝えたと報じられていました。大竹しのぶさんは、インスタグラムの中でこう書いています。「2歳の時に別れた息子の父親に『やっと二千翔も巣立っていきます、安心しました』と、空に向かって呟きました。」さらに「やっと終わった子育て。とは言っても、いつまでたっても子どもは子どもで、母は母なんだろうなあ、とは思いますが…」大竹しのぶさんは、そう書いています。結婚してわずか2年でご主人をガンで亡くし、どれほど辛く心細い思いをしたことかと推察します。息子さんを守り抜くことが、彼女の生きる支えになっていたに違いありません。彼女と同年代の者として、私自身もこのニュースを、感慨をもって読みました。息子さんの結婚が決まるこれまでの間、何かと心配だったことでしょう。そんな中で、息子さんの結婚話がまとまり、やっとこの子も巣立ってゆくのだということでホッとされた。彼女が言うように、いくつになっても、子どもは子ども、親は親であります。

 この朝お読み頂いた聖書であるガラテヤの信徒への手紙の中で、パウロはイスラエルの民に与えられた律法が、イスラエルの民にとってどのような役割を果たしたかについて説いています。3章の24節で、パウロは次のように述べています。「こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。」ここで「養育係」と訳されるもとのギリシャ語(=パイダゴゴス;ギ)は、当時のギリシャにおいて主人の子供たちが学校に通う際に、その通学と帰宅の際に付き添い、子供が大人になるまでの間、その保護、監督の任務を負う奴隷、または解放奴隷のことを指しました。彼らが主人の子供の世話係として、責任をもって子供たちの面倒をみたのです。彼らの中には教養のある者もおりました。その場合は、彼ら奴隷が子供の教師になることがありました。ちなみに、ローマ皇帝ネロの養育係であったセネカは、ネロの教師でもありましたが、解放奴隷であったことが知られています。ローマは軍事力をもって支配下におさめた属州から、住民の多くを奴隷として帝国の中に受け入れたのでした。その奴隷が、主人の家の子供たちの面倒を見ました。そのような養育係としての役割を、ユダヤの律法が担ったのだとパウロは言います。それはすなわち、イスラエルの民が成熟した信仰を持ち、彼らが信仰的にみて「大人」になるまでの間、律法が彼らを導くための監督、案内役となったということです。

 ところで、パウロが律法の役割をそのように捉えていたとすると、イスラエルの民の救いはイエス・キリストが現れるまでは、不完全であった。独り立ちができておらず、監督が必要な状態であったと彼が考えていたことになります。さきほどの大竹さんと同じですね。なぜ、パウロはそう考えたのでしょうか。そのヒントになる言葉が、本日の21節のc (3つめの文章)の中にあります。「万一、人を生かすことができる律法が与えられたとするなら、確かに人は律法によって義とされたでしょう。」という言葉です。文末の「義とされる」とは「救われる」とほぼ同じ意味です。ここで「人を生かすことができる律法」と訳されているもとのギリシャ語は「命を創ることができる律法」と書かれています。ここを逐語的に訳すと「もし、命を創り得る律法が与えられていたなら、義もそこから来るでしょう」となります。しかし実際はそうでない、律法は命を創り出すことができないというのです。それは、どういうことしょうか。

 ルカによる福音書10章に「良きサマリア人のたとえ」として知られる主イエスのたとえ話が記されています。ある人がエルサレムからエリコに下っていく途中、追いはぎに襲われたというたとえです。追いはぎはその人の服を剥ぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたままそこを立ち去りました。すると、そこをある祭司が通りかかったといいます。その祭司は、傷ついた旅人を見ると道の向こう側を通っていったといいます。祭司は、神さまによって特別に選ばれたアロンの家系を継ぐ者で、神殿での礼拝をつかさどる人でした。民に代わって神の前で祈り、人々に教えるという働きもしました。ところが、その人が強盗に襲われて傷ついた人を見て、近寄って介抱するどころか、逆に遠巻きにして立ち去ってしまった。なぜ、そうしたのか。実は、律法を守ろうとしたのです。律法には、祭司がもしも死体に触れると、その人は汚れるという規定があるのです。(レビ記21:11)血に触れると汚れるとも定められていました。つまり、ここに登場する祭司は、律法が定める浄、不浄の掟を守ろうとしたのです。それゆえ、瀕死の旅人を見捨てて立ち去ったのです。二人目のレビ人も同様でした。しかし、3人目にそこを通りかかったサマリア人は、その傷ついた旅人を介抱し、自分のロバに乗せ、宿屋にまで連れていって、彼の宿泊代まで肩代わりしたと言われます。当時、ユダヤ人はサマリア人を、律法を守らない汚れた民とみなして、ひどく毛嫌いしていました。しかし、このサマリア人のほうが、はるか神に近いところで生きていたのです。律法を守ったから、人に命が与えられる、すなわち救われることにはならない。確かに律法は正義を指し示します。しかし、正義を守れば、人が救われるわけではありません。なぜなら、人間は正義の名のもとでしばしば恐ろしいことをするからです。正義の名のもとで人を殺すことをする。律法にもそのような側面があったのではないでしょうか。だから、律法を守ろうとした祭司が、強盗に襲われ傷ついた旅人をほったらかしにする結果になったのです。しかし、それでは人を生かせません。本日のガラテヤの信徒への手紙で、パウロが律法ではなく福音を説いたのは、人は律法によっては義とされない、つまり、救われないことをガラテヤの信徒に訴えるためでした。人は律法の行いによるのではなく、イエス・キリストを信じる信仰によって救われる。割礼を受けることによって救われるのではない!パウロがこの手紙で説いた教えは、端的に言えば、その一点でした。ところが、パウロがガラテヤの教会を去り、次の宣教の地へと旅立つと、ガラテヤ教会にはパウロが説いたものとは異なる福音を説くニセ教師たちがやってきます。彼らは律法の遵守、具体的には割礼を受けることをガラテヤ教会の信徒たちに迫りました。そのことを知ったパウロは「キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。」(1:6)と書いています。ガラテヤの信徒たちの心変わりに仰天している。律法の行いによって人は救われることはない、とあれほど強く言ったではないかというのです。

 先週の火曜夜のことですが、NHKの教育テレビ(Eテレと呼ばれます)で、漫画家のやなせたかしさんの人生とその生き方が、その代表作「アンパンマン」が世に出るまでの経緯も含めて、やなせさんを知る人たちの証言も交えて詳しく紹介されました。今、朝ドラで「あんぱん」が放映中ですから、タイムリーな企画ですね。やなせさんは、幼い頃に父親を亡くし、高知の叔父のもとで育てられます。やがて、戦争で中国に出征し、そこで敗戦を迎えました。敗戦後、日本に帰って来たやなせさんは大きなショックを受けます。戦場に送り出された時は、「この戦争は中国の人たちを守るための正義の戦いだ」と言われ、それを信じて戦ってきた。ところが、いま日本が戦争に負けると、「あの戦いは侵略戦争だった」と政府は言う。いったいどうなっているのか。やなせさんは考えました。人を殺し合う戦争に正義などない。しかも、正義は変わる。本当に変わらない正義とは、飢えている人が目の前にいたら、一切れのパンを差し出して、飢えをしのぐよう助けることだ。そこから、やなせさんの「アンパンマン」が生まれました。(やなせさん自身、かつて戦地にいたころいつも腹を空かし、タンポポの根っこを食べて飢えをしのいだこともあったそうです)自分の顔を引きちぎって、空腹の人にパンを食べさせ、醜い顔になってそこを立ち去るあの人物です。本当の正義は、決してかっこいいものではない。たとえ、自分が傷つき、自分が犠牲になろうとも、助けを必要としている人の力になることだと、やなせさんは言います。このやなせさんの言葉を読んだ時、まるで、イエス・キリストの語られたことと同じではないか!と思いました。初めてアンパンマンを世に出した時、作品への評価は散々だったそうです。こんな漫画は二度と書かないでくださいと、出版社から酷評されました。しかし、やなせさんは諦めなかった。辛抱強く、根気強く漫画を描き続け、やがて子どもたちが読む絵本の中でのキャラクターとしてアンパンマンを登場させました。すると、どうでしょうか。あっという間に子どもたちの人気者になった。子どもたちには分かったのですね

 本当の正義は決してかっこいいものではない。正義とは、自分を犠牲にしてでも困っている人を助けてあげること、困っている人の力になってあげることだ、というやなせさんの言葉は、まさに聖書が説くメッセージそのものです。ユダヤ人にとって律法とは、それを守ることで選ばれた民になる、という救いの手段・道具に変わり得るものでした。律法の行いが錦の御旗になったのです。しかし、パウロは私たちを救うものは人間の行いではなく、イエス・キリストによる贖いの出来事、つまり十字架だと言い切ります。同じガラテヤ書の44節以下(次の347ページです)を読みましょう。「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。」(445)ユダヤ人は律法に支配されているというのです。

 星の王子様という絵本のなかで、王子様は「本当に大切なものは、目に見えないものなんだよ」と語っています。その言葉に追加して、私は本日の説教で、やなせたかしさんの言葉をメッセージとして伝えたいと思います。「本当の正義は、決してかっこいいものではない」という言葉です。ここでいう「正義」は真理、または愛と言い換えてよいかもしれません。真理や愛は、決してかっこいいものではない。私たちの教会の主、イエス・キリストが十字架に架けられ、傷ついて死なれたそのお姿は、決してかっこよいものではありませんでした。しかし、その出来事、神のなさった御業(みわざ)は、その三日後の主の復活も含めて、何と力強い御業(みわざ)、人を赦し生かす、神の御業(みわざ)であった事でしょうか。そこには、律法が最終的に果たし得なかった「罪人の赦し」があります。律法が道案内の役をつとめて、最後にイエス・キリストという真の救い主のもとに連れてきてくれたように、私たちも力強くキリストを運ぶ者となることを心から願うのであります。

お祈りいたします。