2025-07-06 主日礼拝説教
「人を裁くな」
マタイによる福音書 7:1-6
木村一充牧師
本日のマタイによる福音書7章は、主イエスが山上の説教の中でお語りになった教えが書き記されています。「人を裁くな」という教えですが、私たちが決して軽く扱うことができない教えです。顧みると、これまで私たちはどれだけ多くの人を裁いてきたことか、と思わされます。ここにある「裁く」という動詞は、ギリシャ語のもとの意味は「判別する。見分ける」という意味です。同時に、この言葉は人を評価し判断すること全体をも含んでいます。その意味で、私たちはこの行為から逃れることはできません。良きにつけ、悪しきにつけ、私たちは他の人がしたことを評価する中で、日常生活を過ごしています。仕事をするときも評価がついて回ります。学校や家庭においても、親や教師は、子どもが良いことをしたらほめます。一方で悪いことをすると、そのような言動はよくないと注意し、諫める。それも一つの評価であります。
ただ、主イエスがここで言われる「裁く」とは、そのような評価のことを指しているのではないと思われます。むしろ、自分のことを棚に上げて、人の犯した過ちを責めるという行動のことを言っているのです。さらには、その人のいないところでその人を批判する。いわゆる陰口を言うことも含まれていることでしょう。あなた自身、人を批判し、裁くことができるような聖人君子ではないはずだ、と言うのです。人を裁く資格などないということです。そのことを示す具体的な聖書の物語が、ヨハネによる福音書8章に描かれています。姦淫の現場を見られ、取り押さえられた一人の女の物語です。律法学者やファリサイ派の人たちは、彼女をイエスのころに連れてきて、イエスを取り囲み、イエスを訴える口実を手にしようとしました。「モーセの律法によれば、このような女は石打の刑に処せられることになっている。イエスよ、あなたはどう考えるか」と問うたのです。もしも、この女の罪を許し、彼女を開放すれば、イエスは律法を破る不届き者ということになります。反対に、彼らが言うように、この女を律法が命じるままに処罰せよと答えたら、それまでイエスが語られた福音、罪の赦しのメッセージは何だったのかということになります。いずれの答えも、イエスの立場を危うくすることになる。しかし、イエスは言われます。「あなたがたの中で、罪を犯した事のない者が、まず、この女に石を投げなさい」自分は罪を犯したことが一度もないといえる人が、そうしなさいと言われるのです。だれも投げることができませんでした。
人が他の人を裁くことができない理由として、このあと、主イエスはある種のユーモアを交えた譬えでお語りになります。3節をお読みください。「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。」以前の口語訳では、このおが屑と丸太は「ちり」と「梁(はり)」と訳されていました。梁とは、木造建築で、柱と組んで屋根を支える横木であります。柱は地面と垂直に立てられ、梁は地面と平行に並べられる。おが屑は木材を加工するときに生じる木の屑のことです。おが屑と丸太では、大きさが全然違います。何よりも、小さな目の中に丸太が入るはずがありません。しかし、イエスは誇張表現をもちいて、あなたがたの中に丸太ほどの罪や過ちがあるのに、どうしてほかの人の「ちり」程度でしかない罪や過ちを責めるのかと言われるのです。丸太が目の中に入ったとしたら、目は塞がれ、何も見えなくなるでしょう。わたしたちも、ほかの人を得意げに裁いているときは、目が見えなくなっているのかもしれません。
ところで、考えてみると、このように神の言葉を取り次いでいる説教者の私自身が、人を裁いてしまう危険にさらされているというべきです。今でも時々あることですが「先生、もしかして、今日の説教は私に向けて語られたのですか?」というお言葉を聞くことがあります。しかし、「天地神名に誓って」というと大げさですが、私は特定の個人にむけて神の言葉を語ろうと考えたことはありません。説教の言葉は、公の場で語られるパブリックな言葉です。教会のホームページにYou tube動画があげられ、さらに原稿まで掲載されているのです。多くの人に見られ、かつ聞かれている説教の言葉が、一部の人だけの言葉になってはいけません。本日のような厳しい言葉を読むとき、私はまずこの言葉を自分がどう読み、どう感じたかということをベースにして、説教の文章をつづってゆきます。ある意味で、自分自身が「まな板の上の鯉」になって、正直に聖書の御言葉(みことば)から受けたことをつづる。その意味では、自分自身への戒めの言葉として聖書と向き合っているというのが、本当のところであります。
教会の指導者であったパウロという伝道者も、開拓した先の教会員から、はたしてこの人は使徒と呼ばれるにふさわしい人物であるかどうかを評価され、裁かれた人でした。コリントの信徒への手紙一4章3節をよみますと、次のように書かれています(303ページをお開きください)。「わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。」コリントの教会は、それまで教会の牧師として教会を牧会してきた3人の使徒に対して、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファ(ペトロに)」という具合に、支持する指導者をめぐって分派が生まれ、3人を比べ合って、支持する人のもとにつくという分裂の危機が生じていました。パウロは、そのような教会の現状を理解しつつ、そのような中で自分を他の人と比較することはしないといいます。人間の中にある他の人との比較の欲求の根底にあるのは、比較することによって自己をほかの人よりも優れた者としたいという自己肯定の欲求です。ほかの人のことを気遣っているのではありません。比較して自分が優位に立つようにすればいい。結局は、自分だけを見つめているのです。
自分のことを棚に上げて、人の犯した過ちを責める、あるいは事あるごとに自分と人とを比較し、自分のポジションをチェックする。これらの行為に共通することがあります。それは、いずれの行為も自分を守り、他者を踏み台として自分を優位に置き、自分を義と認めようとしているということです。そこには、拭い難い自己絶対化の欲求があります。思えば、聖書が言う罪とは、まさにこのような事態を指しているのではないでしょうか。20歳でバプテスマを受けたとき、このような罪の力を、私は明確にはっきりと分かっていませんでした。しかし、年を重ねるごとに罪がわかってきたのです。自分はなんと自己中心の塊(かたまり)か、と思わされるのです。妻に結婚を申し込んだときでさえそうでした。自分は妻を愛していると思っていた。ところが、妻を愛する以上に、自分のほうをもっと愛していたことに気付かされたのです。私は、そのことに気が付いたとき、自分がどれほどしようもない人間であるかを知りました。
本日の2節に「あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤(はかり)で量り与えられる。」と書かれます。だれに裁かれるのでしょうか。そうです。神です。神が裁かれるのです。主イエスがここで教えておらえること、それは、神が私たちをお裁きになるという事実です。私どもが、安易に人のことを裁くことなどできないのです。もし、私たちが人を裁こうとして、人の欠点や問題を追及しようとするなら、それと同じ熱量で、神があなたをお裁きになったらどうなるかを考えよ、と言っておられるのです。人を裁く私たちの目は実に厳しいものです。人の小さな過ちや欠点すらも見落とさず、おが屑やちりまで数え上げるようなことをする。しかし、もし神がそれと同じ厳しい眼差しで私たちのことをご覧になったらどうなるでしょうか。ただでは済まないでしょう。主イエスは、その神の目、神の裁きを私たちに思わせます。それによって私たちの目の中にある「丸太」に気付かせようとされるのです。
こうして、次のことが明らかになります。私たちの目を塞いでいる丸太、それは私たちの罪であるということです。神こそが私たちの造り主、主人なのに、その神を無視して、自分が主人となって生きている、その罪が私たちの目を塞いでいるのです。人を裁くことも、そに罪から生まれている。裁くことは全能者であり、主人である神がなさることなのです。私たちが人を裁こうとするのは、自分が神に成り代わって主人になろうとすることです。人を裁こうとするところには、自分が神になろうという私たちの罪が表れているのです。私たちに人を裁く資格がないのは、私たちが完璧な人間でないからではありません。そもそも、人を裁くことができるのは神お一人だからです。そのことを見失って、自分が裁き手になろうとすることが人間の罪なのです。
まず、自分の目から丸太を取り除け、と主イエスは言われます。それは、厳しいお言葉です。そのためにはどうすればよいか。これまで以上に人を愛し、赦すようになるのです。裁いて人を殺すのではなく、愛してその人を生かす目を持つのです。それは簡単ではないでしょう。しかし、それが教会に生きるということではないでしょうか。人の罪がはっきりと見えてくるとき、その罪が赦されるように神さまに祈るのです。人を裁くなと言われた主は、その罪の赦しのために十字架にかかり死んでくださいました。私たちは、そのイエスの歩みを手本とし、主と仰ぐ礼拝をささげています。教会が愛の教会となるため、過ちを犯した人を責めたてるのではなく、その人が立ち直れるよう、祈りを熱くしたいと願うのであります。
お祈りいたします。